映画『マエストロ:その音楽と愛と』を観て(その2)

映画『マエストロ:その音楽と愛と』を観て(その2)

レナード・バーンスタインの生涯を描いたNetflix映画『マエストロ:その音楽と愛と』のレビューの続き。こちらはサントラ盤のレビューを兼ねている。映画本編のレビューは(その1)を参照のこと。ネタバレ全開で書く。
  • 前島秀国
    2023.12.20
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(その1)でも書いたように、この映画は『マエストロ:その音楽と愛と』というより「フェリシアとレニー、ときどきバーンスタインの音楽」と呼ぶのがふさわしい作品だが、そのバーンスタインの音楽に関しては、非常に面白い選曲と使われ方がなされている。有名な《キャンディード》序曲はエンドロールで流すだけだし、《ウエスト・サイド・ストーリー》に至っては映画第2幕で描かれる夫婦の不和の始まりを告げる音楽として、文字通りの<プロローグ>が用いられているにすぎない。有名曲中心にレコード会社がコンパイルするようなベスト盤とは完全に一線を画しているが、そのかわり、レナード・バーンスタインという作曲家の多様性が見事に浮かび上がってくる選曲だと思った。それだけでも、この映画が製作された意義が充分に存在する。たとえ映画本編で描かれる人間ドラマに共感できなくても、サントラ盤の収録曲(物語順に配列されている)を聴けばバーンスタインの音楽的業績をたどることがある程度可能なので、映画本編を繰り返して観るより、サントラ盤を聴いているほうがずっと楽しい。

映画第1幕の冒頭に登場する『波止場』組曲(もともとエリア・カザン監督の同名映画のスコアとして書かれたもの)については、すでに(その1)で触れた通りだが、この第1幕で絶大な効果を発揮しているのは、バーンスタインの作品の中では比較的知名度の低いバレエ《ファンシー・フリー》と、映画化された『踊る大紐育』に比べて原曲が知られているとは言い難いミュージカル《オン・ザ・タウン》の音楽である。特に英語の「fancy-free」が「恋に自由奔放」という意味だと知れば、《ファンシー・フリー》の選曲に裏の意味――レニーは必ずしも理想の夫ではなく、生涯を通じて“男癖”を隠さなかった――が込められていることがわかるだろう。

ニューヨーク・フィル・デビュー直後、ジェローム・ロビンズ(マイケル・ユーリー)らが集うロフトでレニーとコープランド(ブライアン・クラグマン)が《ファンシー・フリー》の<バリエーション1(ギャロップ)>を連弾するシーンは、短いながらも鮮烈な印象を与えるし、フェリシアが初めて登場するシーンでは、《オン・ザ・タウン》の<ロンリー・タウン(パ・ド・ドゥ)>が非常にインパクトのある形で流れてくる。原曲の《オン・ザ・タウン》において、このパ・ド・ドゥは主人公ゲイビーが「愛がなければニューヨークは孤独な街」と歌った後に流れてくるナンバーなので、多少大げさな音楽に聴こえるにしても(映画館での上映ではかなりの大音量で流れてくる)、フェリシアに恋の予感を感じさせるテーマの役割はしっかりと果たしていると言えるだろう。もし、同じような文脈で書かれた《ウエスト・サイド・ストーリー》の<何か起こりそう Something’s Coming>を使ったら、おそらくほとんどの観客は映画化された『ウエスト・サイド物語』の場面を即座に想起してしまうに違いない。その意味でも、原曲の文脈を踏まえながら物語の流れに配慮した絶妙な選曲である。それから映画の第1幕中盤、クーセヴィツキー(ヤセン・ペヤンコフ)との会食を抜け出したレニーとフェリシアがブロードウェイの劇場に駆け込み、《ファンシー・フリー》の<3人の水夫の登場>のダンスを眺める――そのうち、レニーが水夫のひとりとして踊り始める!――シーンは、理屈抜きに楽しい。これだけでもこの映画を観る価値があるが、そのシーンの終わり、3人の水夫が《オン・ザ・タウン》の有名曲<ニューヨーク・ニューヨーク>を歌い始めた瞬間、映画は躊躇なく次の場面に移ってしまう。音楽ファンなら、歌をフルバージョンで聴かせろと不満を覚えるかもしれないが、そもそもクーパー監督はこの映画をバーンスタインの名曲紹介にする演出意図を持ちあわせていないので、歌をひとくさり聴かせればそれで十分と判断したのだろう。

このように、映画第1幕は《ファンシー・フリー》と《オン・ザ・タウン》を中心とした“音楽劇”と構成されているが、これに対して映画第2幕は、《ミサ曲》の作曲シーンと初演シーン以外、バーンスタインの音楽はほとんど流れてこない。そのかわり、この第2幕中盤においては、レニーが指揮するマーラーの交響曲第2番《復活》の最終楽章、「Langsamer Misterioso」とスコアに記された第629小節(合唱が「震えるのを止めよ!」と歌い始める)から最後までがカットなしで演奏され、しかもその演奏は――歌手、合唱、オケを映し出すインターカットを除き――1カットの長回しで撮影されている。

この《復活》演奏シーンは、1973年にバーンスタインがロンドン響を振ったイーリー大聖堂の演奏を現地でそっくりそのまま再現したもので、オリジナルの演奏を収めた映像は現在も配信やDVDなどで簡単に観ることが出来る。その映像を参照しながらレニーの指揮ぶりを“完コピ”したというクーパーの熱演は一見の価値があるが、音声はバーンスタイン自身の録音を使用せず、クーパーがロンドン響を振った新録音を用いている点に関しては、疑問に感じる観客も多いかもしれない。

映画ファンならご存知のように、クーパー監督は前作『アリー/スター誕生』の撮影において、共演のレディ・ガガと共に歌唱シーンをすべて同時録音したことで(つまり口パクを使わず、カメラの前で歌った声をそのままサウンドトラックで流す)、ハリウッドの音楽映画の撮影手法に絶大な影響を与えた。その結果、現在のハリウッドの撮影現場においては――たとえ『TAR/ター』のように俳優が指揮者を演じる映画であっても――演奏シーンの音楽を同時録音し、その音声をそのままサウンドトラックに用いるのが半ば常識となっている。今回の映画でも同じ手法で撮影に臨んだクーパー監督は――彼の指揮がバーンスタイン自身の録音を超えられないにせよーー自らロンドン響を振った演奏をそのまま撮影することで、音楽的な正しさ(つまりバーンスタイン自身の録音を使う)よりも映画的リアリズムを優先させている。したがって、サントラ盤に収録された《復活》のクーパーの演奏――それ自体はバーンスタインの録音をそっくり真似している――を音楽的に批評するのは、あまり意味がない。ただ、演奏の出来はともかく、バーンスタインのファンならば、彼の全レパートリーの中でもマーラー、とりわけ《復活》が大きな意味を持っていたという予備知識を持っているはずなので、このシーンを違和感なく受け入れることができるだろう。しかし、そうでない観客にとっては、この映画の中でほとんど唯一と言えるレニーの本格的な指揮シーンにおいて、なぜマーラーが演奏曲に選ばれたのか、なぜ《復活》が用いられているのか、いささか唐突に感じられるかもしれない。

クーパー監督がマーラーの《復活》を選んだのは、いろいろな理由が推測できるが、物語の内容に即してみれば、フェリシアとレニーの関係を象徴的に表す楽曲として選曲したと考えるのが妥当だろう。映画第1幕は、マーラーの交響曲第5番の<アダージェット>を振るレニー(物語の中ではカーネギーホールという設定だが、サントラ音声にはバーンスタインがウィーン・フィルを振ったDG録音が使われている)をフェリシアが舞台袖で見守るシーンで終わるが、このシーンでの<アダージェット>は、わかりやすく言えばフェリシアとレニーの“愛のテーマ”の役割を果たしている。そして、映画第2幕の《復活》のシーンでも、やはりフェリシアが舞台袖からレニーを見守っているのだが(演奏シーンが基本的に1カットの長回しで撮られているのは、キャメラがフェリシアの視点に同化しているからである)、<アダージェット>のシーンとの大きな違いは、レニーと別居していたフェリシアがわざわざ演奏に駆けつけたこと、つまり《復活》が文字通り“愛の復活のテーマ”の役割を果たしている点だ。だからこそ、この演奏シーンの直後に描かれるフェリシアの病状宣告がいっそう痛ましく感じられるのである。ましてや、《復活》の中で歌われるクロップシュトックの歌詞には「おお苦痛よ、すべてを支配するものよ」という言葉が出てくるのだから(ただし合唱の歌唱場面に字幕は付いていない)、皮肉としか言いようがない選曲である。

サントラ・ライナーを執筆しているわけではないので、これ以上の分析は止めておくが、映画本編を見た上でサントラを聴き、また本編を見直せば、バーンスタインの音楽を用いてフェリシアとレニーの“夫婦善哉”を描くというクーパー監督の演出意図は――遺族が望んでいるような人物像を描いているという意味において――ある程度成功を収めていることがわかる。ただ、一観客として言わせてもらえば、我々観客はバーンスタイン・ファミリーの“家族の肖像”を期待していたわけではない。そんな家族の内輪話より、例えばハーバード大学のノートン講座の準備のためにノーム・チョムスキーの協力を仰いだとか、レニーとフェリシアがブラックパンサー党と関わりを持ったとか、そういうバーンスタインの文化的、政治的、社会的側面を描いてほしかった。ベートーヴェンやモーツァルトやワーグナーを描いた映画が数多く製作されているように、バーンスタインという音楽家も、たかだか1本の映画で語り尽くせるような人物ではないことは十分承知しているけれど。
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