映画『マエストロ:その音楽と愛と』を観て(その1)

映画『マエストロ:その音楽と愛と』を観て(その1)

レナード・バーンスタインの生涯を描いたNetflix映画『マエストロ:その音楽と愛と』を劇場公開初日に観たが、期待を大きく裏切る内容だったので、少し時間を置いてもう一度観に行った。ネタバレ全開で書く。まず、映画本編のレビュー。
  • 前島秀国
    2023.12.20
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レナード・バーンスタインを演じるブラッドリー・クーパーが自ら監督と共同脚本を手がけた『Maestro』は、くどいようだが『マエストロ:その音楽と愛と』という邦題がついている。確かにそういう内容なのだが、より正確には「フェリシアとレニー、ときどきバーンスタインの音楽」と呼ぶべきだ。妻フェリシア・モンテアレグレを演じたケリー・マリガンがエンドロールのキャスト表のトップにクレジットされていることからもわかるように、クーパー監督はあくまでもこの作品を妻フェリシアを主人公に据えた“愛妻物語”として描いている。バーンスタインの音楽的キャリアや業績をくまなく追うような伝記映画や、名曲誕生秘話に迫る音楽映画を期待して観ると、しっぺ返しを食らうだろう。映画の中でのプライオリティは、あくまでもフェリシア、レニー、そして音楽の順である。逆ではない。

本編そのものは、テレビの取材に応じる晩年のレニーを描いたプロローグとエピローグをのぞくと、おおまかに3幕仕立てで構成されている。まず、レニーがブルーノ・ヴァルターの代役としてニューヨーク・フィルを振りセンセーショナルなデビューを飾った1943年から、フェリシアとの出会いと結婚を経て、“よきパパ”となる1960年代までを描いた第1幕で、この部分はモノクロ・スタンダード(1:1.33)で撮影されている。次はレニーとフェリシアの不和と別居、和解、そしてフェリシアの闘病生活と死までを描く1970年代の第2幕で、この部分はカラー・スタンダード。そして、第3幕と呼ぶにはあまりにも短い1980年代のエピソードでは、タングルウッドでの指揮の指導および学生とのアヴァンチュールが描かれているが、この部分はカラー・ヴィスタ(1:1.85)で撮影されている。このように、時代を追って撮影フォーマットが明確に変化していくので、おおざっぱな時間の経過はわかるのだが、具体的な年代や場所を説明するタイトルは画面上にいっさい登場しない。バーンスタインに関する知識をある程度持ち合わせている音楽ファンが見れば、第1幕の終わりでレニーがニューヨーク・フィルを指揮してマーラーの交響曲第5番を演奏しているので、それが1960年代だとわかるし、第2幕に入るとレニーが台詞の中で「ドイツ・グラモフォン」と口にするので(ただし日本語字幕はついていない)、物語が(DGと録音プロジェクトを開始する)1970年代に入ったと理解できるだろうが、そこまで即座にわかる観客はむしろ少数派に属するだろう。あるいは、撮影スタイルとフィルムの質感で時代をある程度特定できる熱心な映画ファンならば理解に困らないかもしれないが、そうでない現代の若い観客には少々不親切な演出というべきである。にもかかわらず、クーパー監督が時代や場所を明示しない演出スタイルにこだわったのは、この映画を“偉人の年代記”ではなく、フェリシアとレニーを中心に描いた“ホームムービー”にしたかったからであろう。むろん、そこにバーンスタインの遺族の意向(音楽使用権の許諾を含め、この映画の製作に全面協力している)が反映しているのは、ほぼ間違いない。

とはいえ、いわゆる“音楽映画”を期待していた観客には、少なくとも第1幕はそれなりに楽しめるかもしれない。物語の冒頭、レニーが代役依頼の電話をベッドルーム(男性の恋人と寝ている!)で受けると、有名な『波止場』組曲の<アレグロ>がダイナミックに鳴り響き、その音楽に突き動かされるようにしてレニーが寝室を飛び出していくと、あっという間にカーネギーホールに舞台転換し(編集による場面転換ではなく、寝室とホールがひと続きのセットで繋がっているように撮影している)、プログラム1曲目のシューマン《マンフレッド》序曲を振り始めるまでを長回しで一気に撮影したシークエンスは、実に鮮やかで見事な演出というべきだ。レニーとフェリシアの出会いと恋を、バレエ《ファンシー・フリー》と(その派生作品の)ミュージカル《オン・ザ・タウン》の音楽に重ねながら描いた部分も同様。つまり、バーンスタイン自身の音楽をフィルム・スコア(わかりやすく言えば劇伴)に用いた“音楽劇”として構成されているので、ブロードウェイで成功を収めた音楽家の生涯を描く映画の演出としては理に適っているし、なによりも聴いていて楽しい。ただし問題なのは、映画として見た場合、その第1幕で描かれるレニーとフェリシアの“愛情物語”が、あまりにも古臭くて面白くない点だ。もちろん、レニーの“男癖”も多少は描かれているが、基本的にはセレブ同士が出会って恋に落ち、結婚し、子供に恵まれる、ただそれだけの過程――伝記的事実としてはそうなのだろうが――を1時間近くも見せつけられるのだから、はっきり言って苦痛以外のなにものでもない。特に深い知り合いでもないのに出席せざるを得なくなった披露宴で見せられる新郎新婦のホームビデオが全く面白くないのと、本質的には同じである。

ところが第2幕になると映画はがらりとスタイルを変え、イングマール・ベルイマンの家庭劇のような“ある結婚の風景”を生々しく描いていく。夫婦の不和の原因となるのは、言うまでもなくレニーの“男癖”だが、第1幕で目まぐるしく動いていたキャメラは第2幕になると完全に静止し、まるでバーンスタイン邸に隠された監視カメラのように、夫婦喧嘩の生々しい有り様を長回しで粘り強く映し出していく。しかも驚くべきことに、これらのシーンにおいて、バーンスタインの音楽はほとんど流れてこない。いわゆる“音楽映画”を期待していた観客は、おそらくこの第2幕で挫折するだろうが(実際、筆者の見た映画館ではこの第2幕で数人が退場した)、映画としては、実はこの第2幕ががぜん面白い。肺がんに冒されたフェリシアがみるみるうちに衰弱し、レニーが指揮の仕事をキャンセルしてまで看病に専念するくだりは、“難病もの”につきもののお涙頂戴的展開と言ってしまえばそれまでだけど、映画の中にも登場する長女ジェイミー(マヤ・ホーク)らの証言に基づいて再現されたと思われるエピソードの数々は、それなりの真実味をもって胸に迫ってくる。特にフェリシアが病状を宣告される長回しのシーンにおいて、絶望のどん底に突き落とされる彼女の表情と感情の変化を見事に表現したマリガンの迫真的な演技は、この映画の中で最もエモーショナルな見どころと言えるだろう。このようなリアルな人間ドラマが、第1幕には決定的に欠けていた。

映画的に見れば、この第2幕のフェリシアの死をもって物語が完結しているので、第3幕のタングルウッドのエピソードは蛇足どころか、映画そのものを竜頭蛇尾にしてしまうような印象を持った。カズ・ヒロが手がけた特殊メイクのおかげもあり、指揮の指導シーンで完全にレニーになりきったクーパーの演技は、まるでマエストロが墓から蘇ったのではないかと錯覚させるほどの説得力を持っているが、その直後、先ほどまで指導していた男子学生とレニーがダンスパーティでチークダンスを踊るシーンを見せつけられると、第2幕までの美しい“愛妻物語”が完全にふっとんでしまい、映画を観ているこちら側としてはレニーのダメさ加減に混乱を覚えてしまう。そうした人間的矛盾こそがレナード・バーンスタインというマエストロの実像だと言わんばかりだ。しかもそのダメさ加減は、クーパー監督の前作『アリー/スター誕生』で彼が演じたカントリー・ロック歌手のキャラクターの焼き直しに他ならないので、これはバーンスタインの物語がどうのこうのというより、映画監督としてのクーパーの持ち味というか、作家性なのだろう。

以上が劇場で最初に観た時の印象だが、その後、サントラ盤を聴き込んでからもう一度劇場で観ると、多少違った見方をすることができた。それを(その2)で綴る。
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