最後にして最初のレクイエムーーヨハン・ヨハンソンの遺作(4)

最後にして最初のレクイエムーーヨハン・ヨハンソンの遺作(4)

CD(またはLP)+ブルーレイの形でリリースされた、ヨハン・ヨハンソンの遺作『Last and First Men』レビューの完結編。『Last and First Men』は、ヨハン・ヨハンソンの最後にして最初のレクイエムである。
  • 前島秀国
    2020.06.14
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ヨハン・ヨハンソンが「サーガ=歴史=物語」を表現する上で最も得意とした手法は、交響曲のような既存の形式やマックス・リヒターが『メモリーハウス』のような断章形式に頼った作曲ではなく、他ならぬフィルム・スコアの作曲であった。そこに、『Last and First Men』が映画音楽として書かれなければならなかった最大の理由が存在すると思う。“架空のサウンドトラック”のようなコンセプチュアル・アートではない、本物の映画音楽だ。

映像のテンポと音楽のテンポが一致している点については、すでに触れた。しかも、意外に思われるかもしれないが、『Last and First Men』は劇映画のサントラ(いわゆる劇伴)としての最低限の要素も備えているのである。

最もわかりやすいのは、超新星化が始まった太陽をたった一度のクラスター(密集和音)で表現した《The Sun》、あるいはその直前の場面のために書かれた《The Navigators》であろう。この場面では、第18世代の中でも特に優れたナビゲーター(宇宙飛行士)たちが星間探査中に死亡または発狂するという事故に遭遇し、その結果、恐怖に襲われた全人類が引きこもり状態に陥ってしまう。この部分の音楽で、ヨハンソンは弦楽器の不安な音形を約8分近くもねっとりと繰り返していくことで、第18世代が死の恐怖にじわじわと取り憑かれていくさまを見事に表現している。画面を見てみると、「コルドゥンとバニージャの人民蜂起記念碑」として知られる未来建築の廃墟が、さながらホラー映画の幽霊屋敷のように霧の中から現れる。音楽も映像も物語もホラー、いやオカルトだ。しかもこの部分、つまり死の恐怖を表現した音楽が、実は『Last and First Men』全曲における最大のクライマックスなのである(CDのサントラ音源は2chステレオだが、本編では音楽が5.1サラウンドのミックスで地響きを立てて鳴り響くだけでなく、さらにもう一捻りショッキングな演出が加えられている)。

だが、『Last and First Men』は単なるサントラ(劇伴)に終わらない、もうひとつ重要な特徴をそなえている。それは、音楽が物語をナラティヴに表現しているだけでなく、物語を伝えるナレーター(すなわち第18世代のメッセンジャー)と音楽が独特の関係で結ばれているという点だ。つまり、ナレーターの存在自体が音楽の構成要素のひとつであり、ひいては音楽の成立において重要な役割を果たしているのである。その手法は、すでにヨハンソンの過去の(非サントラの)アルバムにおいても姿を見せている。

再び、ヨハンソンと僕の最後にして最初のインタビューから引用する。
「アルバム『IBM 1401 – A User’s Menual』では、ナレーターが1960年代のコンピューターのマニュアルを朗読しているのですが、そのナレーションがあたかも昔のアーカイヴ録音を発掘してきたような感じを生み出し、音楽の表現対象(注:IBMコンピューターのこと)と一体化するというわけです。同様にアルバム『オルフェ』でも、乱数放送の奇妙なナレーションが地上と冥界というふたつの世界をまたぐメッセンジャーの役割を果たしているのですが、そうしたナレーションが(地上と冥界を行き来する)オルフェの神話にピッタリだと感じました」

『Last and First Men』のティルダ・スウィントンのナレーションが、ほとんど感情を表さず、まさに「マニュアルを朗読」するように物語を淡々と伝えている最大の理由が、実はここにある。スウィントンくらいの大女優なら、人類第18世代のメッセンジャーという役柄を演じることぐらい簡単だろうし、あるいはスポメニックの廃墟映像に相応しい感動的なナレーションを吹き込むことだって可能だろう。だが、そのどちらかにも偏っていけない。少なくとも、ヨハンソンはそういうナレーションを望んでいなかった(ヨハンソンは、スウィントンのナレーションを自ら演出・録音している)。なぜなら、この作品が有する多義性――先に触れたような「物語=歴史=サーガ」を伝えるという多義性――が失われてしまうからである。

原作を読んだことのあるリスナーならおわかりかと思うが、実は映画に用いられたナレーションにおいて、ヨハンソンは原作の最も有名な箇所を敢えてカットしている。本編のラストに登場する「偉大なるは星々。人間などとるに足らぬ。だが、人間は清らかな魂、星によって生まれ、星によって死がもたらされる魂である」という言葉の後、原作は次のような感動的な言葉で締め括られる。「間違いなく言えるのは、少なくとも人間自身が音楽であり、しかも、嵐と星々の広大な伴奏と共に音楽を奏でる勇敢な主題であるという点だ。(中略)人間という音楽に美しいコーダをもたらすのは、結局のところ、我々自身だから」。

音楽家であるヨハンソンが、当然このラストの言葉を見逃すはずがない。これをカットしたのは、わざわざこの映画で使う必要がなかったからだ。つまり、ヨハンソンのスコアがまさにその“音楽”を奏でているのである。

この”音楽”をヨハンソン自身の死と結びつけてよいものなのか、僕には判断がつかない。いや、つけるべきではないのだろう。だが、事実として、ヨハンソンは2018年2月に現世から冥界に向かってしまい、彼自身が「ふたつの世界をまたぐメッセンジャー」になってしまった。そして、人類第18世代のメッセンジャーが第1世代の書き手をチャネラー(霊媒師)にしてメッセージを送り届けてきたように、ヨハンソンも補筆者のグロットマンを媒介にすることで、彼の最後のメッセージとなったこの作品を、我々に送り届けてきた。別の言い方をすれば、ヨハンソンは望むと望まざるとに関わらず、自らの生涯をこの作品の内容に組み入れることで、『Last and First Men』の作品世界と一体化してしまったのである。

映画の後半、死が目前に迫ってきたメッセンジャーは平静を装いながらも、こう語りかけてくる。「君たちに到達するのが困難になってきた。それどころか、君たちに話しかけることも困難になってきた」。僕はその言葉の中に、この作品を現世に残したまま冥界に旅立ってしまったヨハンソンの辛い心情を読み取らずにいられない。

それでも、メッセンジャーとなった彼はグロットマンを通じて『Last and First Men』をかろうじて送り届けてきた。それは、サントラとしての物語的要素を最低限備えながら、死の恐怖を見据えた上で人類の終わりを描き、過去のヨハンソンの音楽語法をほぼすべて投入しながら、人類の歴史=物語=サーガを総括して描いたレクイエム、すなわち「人間という音楽」である。しかもその音楽は、図らずも作曲者ヨハンソン自身のレクイエムとなってしまった。こんな音楽は、とても現世の人間には書けない。もし、例外があるとすれば、それはモーツァルト未完の遺作《レクイエム》だけだろう。

『Last and First Men』は、ヨハン・ヨハンソンの最後にして最初のレクイエムである(了)。
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