スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その2)

スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を見て(その2)

レナード・バーンスタイン作曲、スティーヴン・ソンドハイム作詞の名作ミュージカルを、スティーヴン・スピルバーグ監督が再映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を完成披露試写会で見てきた(12月23日、TOHOシネマズ日比谷Screen 1)。たいへん長くなったので、映画本編のレビュー(ネタばれ有)とサントラのレビュー(ネタばれ無)に分け、さらに本編のレビューを2つに分けて書き記す。以下、「その2」(ネタばれ有)。
  • 前島秀国
    2021.12.31
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「その1」で述べてきた“分断”は、すべて横方向のホリゾンタルな“分断”、つまり民族問題や移民問題に起因する“分断”だが、スピルバーグはそれだけでなく、縦方向のヴァーティカルな“分断”、すなわち経済的格差の問題もこの映画の中で示している。それを具体的に表現したのが、<プロローグ>が流れる本編冒頭のオープニングだ。

1961年版のカメラは、ニューヨークの下町の町並みを俯瞰で映し出した後にバスケット・コートに切り替わるが、スピルバーグ版のカメラは、なんと瓦礫の山を映し出す。しかも、その瓦礫の山の前には「リンカーン・センター建設予定地」という標識が立っているのだ(1961年版にも実は瓦礫の山が一瞬だけ登場するが、それが再開発予定地だということは一切言及されていない)。

ご存知のようにリンカーン・センターはアメリカを代表する“芸術の殿堂”だが、それはあくまでも富裕層のための“芸術の殿堂”であって、決して庶民のためのものではない(《アイ・フィール・プリティ》のナンバーが歌われるシーンで、プエルトリコの女性たちは「オペラとか私たちには関係ない」といったセリフをスペイン語で口にする)。その芸術の殿堂を建てるために再開発が進むアッパー・ウエストサイド地区で、解体業か何かに就いている肉体労働者というのが、スピルバーグ版におけるシャークスとジェッツの基本設定である。つまり彼らは――あくまでもこの映画が描いているところに従って言えば――文字通り“底辺”で暮らすことを余儀なくされた人々なのだ。その彼らが瓦礫の中を走り回り、色鮮やかなペンキをぶち撒ける抗争を描いた映像は、もはや黒澤明の『どですかでん』と全く変わらない。

この如何ともし難いヴァーティカルな“分断”、すなわち経済的格差の問題をはっきり描いているのが、プエルトリコ系のアニータたちが歌う有名なナンバー<アメリカ>のシーンである。1961年版ではアパートかビルか何かの屋上で歌い踊るという設定になっているが、スピルバーグ版では、なんとアニータたちが洗い物を干すシーンから、このナンバーを歌い始める。しかもスピルバーグは、おそらくバーンスタインの原曲のオーケストレーションからヒントを得て、このシーンを着想したと思われるのである!

バーンスタインの原曲、すなわち1957年ブロードウェイ初演版の楽器編成では、<アメリカ>のイントロ部分で中南米の打楽器ギロが「ギコギコ」とリズムを刻む。バーンスタイン(と編曲者たち)がギロを入れた最大の理由は、おさらく音楽にラテンアメリカらしい音色とローカリズムと加えたかったからだろう。しかしながら、ギロは洗濯板に形状が似ているばかりか、主にジャズで用いられるウォッシングボード(文字通り「洗濯板」から生まれた楽器)と酷似した音を出す。そこにスピルバーグは注目し、原曲のギロを洗濯板が出す“ノイズ”と読み替えているのである(実際、このシーンを劇場で見ると、ギロの音がはっきり聴こえるようにミックスされている)。しかもソンドハイムの歌詞の中には「洗濯機が欲しい」「洗うものなんかあるのか?」といったやりとりが登場するので、<アメリカ>のナンバーを洗濯干しのシーンで始めるのは非常に論理的だし、また説得力がある。

かくして、アニータたちは洗濯干しを止めて飛び出し、アメリカン・ドリームを実現したいと街中でダイナミックに歌い踊るわけだが(アニータ役のアリアナ・デボーズが本当に素晴らしい!)、彼女たちの背後、はるか遠く彼方にエンパイア・ステート・ビルが映し出される(画面の前景で繰り広げられるダンスが圧巻なので、もしかしたら気付かない観客も多いかもしれないが、画面の奥まで注意して見るとわかる)。言うまでもなく、エンパイア・ステート・ビルはアメリカそのもの、つまりアメリカン・ドリームの象徴的存在だが、どう考えてもアニータたちの手には届かない。音楽とダンスが躍動感に溢れれば溢れるほど、ヴァーティカルな“分断”つまり経済的分断の凄まじさが逆に強調されてくる。その厳しい現実を、スピルバーグの映像は容赦なく突きつけているのである。

スピルバーグ版は、原曲がブロードウェイで初演された1957年当時を舞台設定に用いているが、ここまでお読みいただいたらおわかりのように、スピルバーグがこの映画で描いているのは60年以上前にあった“分断”ではなく、今の世の中に厳然として存在する“分断”である。その“分断”は、60年前よりもさらに酷くなっているかもしれない。それを示すため、今回のスピルバーグ版では、1961年版でアニータを演じたリタ・モレノが新キャラクターのヴァレンティーナ(原曲に登場するドラッグストア店主ドクの未亡人という設定だが、実質的にはドクを女性に置き換えた役柄)を演じ、<サムウェア>をソロ・ナンバーとして歌う。現在90歳のモレノが「平穏で静かで開かられた、私たちのための場所がどこかにあるはず」と歌う<サムウェア>は、もはや希望の歌というより、怒りと絶望と諦念が入り混じった警告の歌のように聴こえてくる。モレノが1961年版でアカデミー助演賞を獲得してから60年あまり、<サムウェア>の歌詞が実現されるどころから、その逆に向かっているとしか思えない世界の現状を、おそらく彼女は誰よりも痛感しているはずだ。そんなモレノの魂の歌は、どんな名歌手や美声の持ち主でも太刀打ち出来ない迫真性に満ち溢れている。正直に告白すると、彼女の歌唱シーンで、僕は初めて泣いた。

他のキャストについては、サントラ盤のレビューで詳しく述べたいと思うが、ここではひとりだけ、トニー役を演じたアンセル・エルゴートについて触れておきたい。スピルバーグ版のキャストの中で唯一知名度があるエルゴートだが、カメラのアングルによっては若き日のマーロン・ブランドそっくりに見えるエルゴートの好演を見て、僕は即座にブランド主演の『波止場』を思い浮かべた。あの映画も舞台はニューヨーク(ロケ地は対岸のニュージャージーだが)、物語は労働者同士の抗争と殺人、しかも音楽は他ならぬバーンスタインと、いくつかの点で『ウエスト・サイド・ストーリー』と共通点がある。おそらくスピルバーグは、そうしたアメリカ映画の伝統を踏まえた上で、この映画を作ったのではないかと思う。若い世代が見ることのなくなった古き良きアメリカ映画を、忘却という“分断”の向こう側に置き去りにしないために。

そして、あの最後の銃声。あんなに腹の底まで響く銃声を劇場で聴いたのは、マイケル・チミノ監督『天国の門』の70ミリ上映を見て以来だ。『天国の門』も今回のスピルバーグ作品と同様に移民問題と“分断”に焦点を当てた作品だが、40年前のハリウッドではタブーとされていたテーマだったので、結果的にチミノは映画界から抹殺された。それから40年、スピルバーグの『ウエスト・サイド・ストーリー』は、エンタテインメントの枠の中にギリギリ踏み留まりながら、もはや“分断”をタブーとして片付けられなくなった世界の現状を真正面から描いている。
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