最後にして最初のレクイエム――ヨハン・ヨハンソンの遺作(1)

最後にして最初のレクイエム――ヨハン・ヨハンソンの遺作(1)

時間に余裕が出来たので、ヨハン・ヨハンソンが作曲と映像監督を兼ねた遺作『Last and First Men』をようやく鑑賞した。タイトルは、オラフ・ステープルドンのSF小説の古典『最後にして最初の人類』に因む。今回リリースされたアルバムは、ブルーレイとCD(またはLP)で構成されている。
  • 前島秀国
    2020.06.14
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2017年7月、アイスランドの作曲家ヨハン・ヨハンソンはマンチェスターでマルチメディア作品『Last and First Men』を世界初演した。彼が監督した16mmフィルムのモノクロ映像を舞台上のスクリーンに映写し、女優ティルダ・スウィントンが事前に録音した朗読テキストを流しながら、ヨハンソンが作曲したスコアをBBCフィルハーモニックが生演奏するというもので、言ってみればシネマ・コンサートの一種である。当然、僕も見に行きたかったのだが、ほぼ同じ時期にマックス・リヒターが《スリープ》全曲をアムステルダムで演奏するというのでそちらを優先し、ヨハンソンのほうは仕方なく諦めた。まさか翌年、彼が48歳の若さで急死するとは夢にも想像していなかったからだ。

彼の死後、『Last and First Men』はロンドンとシドニーで再演されたが、今回リリースされたアルバムに含まれる音楽は、オリジナルのオケ版ではなく、彼が死の直前まで制作に携わっていた改訂版である。アルバムに収められたアンドリュー・メイルのライナーノーツによれば、ヨハンソンは初演の出来に不満を覚え、改訂版制作を決意。特にオーケストレーションに関して、オケ版の編成を縮小しようと考えていた。そこで彼は、コントラバス奏者/作曲家/サウンドエンジニアのヤイル・エラザル・グロットマンに改訂作業の協力を依頼したが、2018年2月にヨハンソンがコカインの過剰摂取で急死。グロットマンは未完のまま残された改訂作業を継続し、補筆・完成した上で、生前のヨハンソンと縁のあった音楽家をソリストに起用し、改訂版を録音した(トレーラーを見る限り、弦五部各4本のみの編成に縮小されたオケに、いくつかのソロ楽器とヴォーカル、それにヨハンソン自身が生前残した音源を加えている)。

これと並行し、16mmフィルムの撮影監督を務めたシュトゥルラ・ブラント・グロヴレンが、オケ版初演に使われた映像を1本の長編映画として構成。グロットマンの改訂版スコアをサントラに用いることで、映画版『Last and First Men』を完成させた。この映画版は、“ヨハンソン最後にして最初の”長編監督作として今年2月のベルリン国際映画祭で初上映された後、今回リリースされたアルバムのブルーレイに本編(2K、DTS-HD Master Audio 5.1ch)が収録されている。

このように、かなり複雑な過程で完成に漕ぎ着けた作品ではあるが、この種の補筆作業が避けて通ることの出来ない問題、つまりヨハンソン本人のアーティスティックなヴィジョンが今回リリースされたヴァージョンにどの程度まで真正に反映されているのか、というデリケートな問題は依然として付き纏っている。ただし、少なくとも全体の構成に関しては、ヨハンソン自身が演奏に加わった2017年のマンチェスター初演が“原テキスト”として存在しているので、そこから大きくは逸脱していないのだろうと推測される。そうした特殊事情を考慮した上で、今回リリースされたアルバムに接してみると、『Last and First Men』はヨハンソンの“白鳥の歌”とか“遺書”といった生易しい言葉で片付けられる作品ではなく、もっと深刻な意義を持った作品であるという確信を得た。

これを作ってしまったら、あとは小品を書いて余生を過ごすか、あるいは割り切った映画音楽の仕事を続けていくしか他に道が残されていない、というくらいのギリギリのところまで、彼のヴィジョンが濃縮して表現されている。いや、こう言ったほうが正確かもしれない。この途方もない作品の完成を阻むために――あるいは促すために――何らかの力が働き、ヨハンソンを冥界に連れて行ってしまったのだと。

この作品は、CDすなわち音楽だけで聴いた場合と、ブルーレイすなわち映画本編として見た場合では、作品の伝える内容が大きく異なってくる。まず、映画として見なければヨハンソンの意図は理解できないし批評もできないというのが、僕の基本的な捉え方である。CDはあくまでもサントラであって、それだけでヨハンソン最後の芸術をトータル的に語ろうなどという不遜な態度は慎むべきだ。

だが、さしあたってはCDの印象から記す。

CDに収録された20トラック、トータル65分のスコアを聴いてみた時、ヨハンソンの熱心なファンあるいはサントラのファンなら、特にサウンド面において、彼が2017年に手掛けたSF映画『メッセージ』のスコア、それから映画音楽における彼の遺作のひとつになった『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』のスコアと本作との類似性に気付くだろう。例えば、テープループの使用、特殊な発声のヴォーカルなど、多くの要素が『メッセージ』から『Last and First Men』に受け継がれているし、ほとんど全編を通じて流れるドローンは『マンディ』のそれを強く連想させる。実際、ヨハンソンは『メッセージ』の作曲を終えた後に『Last and First Men』オケ版の作曲を完成させ、その後、『マンディ』の作曲依頼を受けているので、これらの作品の間に何らかの影響関係が存在するのではないかと推測したくもなる。

しかしながら、そうした類似性はヨハンソンの作家性に起因するというよりは、『Last and First Men』を補筆することになったグロットマンが生前のヨハンソンから改訂作業の実際を細かく指示されていなかったため、彼が意図的に過去のサントラの音楽語法を参照した結果だと見るべきであろう。ましてや、グロットマンは他ならぬ『マンディ』のスコアを追加作曲する形でヨハンソンとコラボしているので、似てこないほうがむしろ不自然である。より正確に言えば、“似ている”のではなく“似せている”のだ。従って、ヨハンソンがこれらの映画音楽と『Last and First Men』を同じ音楽語法で書こうとした、またはどちらかがどちらかに影響を与えたなどと考えるのは、あまりにも早計である(映画『メッセージ』と映画版『Last and First Men』の類似性については、あとでもう一度触れる)。

そうした類似性を差し引いた上で、改めて『Last and First Men』を聴き直してみると、目の前に現れてくるのは、マーラーよりもショスタコーヴィチよりもグレツキよりもペルトよりもさらに遅く、重く、低く進んでいく音楽だ。曲全体を貫くメインテーマは、わずか2つの和音で構成されるモティーフの繰り返しでしかない。そこに声明のようなヴォーカルが加わり、天から降り注ぐようなソプラノが加わり、古代の擦弦楽器を思わせるチェロやヴィオラ・ダ・ガンバが静かに響く(チェロ・パートは、長年にわたるヨハンソンのコラボレーターで今年『ジョーカー』でアカデミー作曲賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティルが演奏している)。ごく一部のトラックをのぞいて、時間を明確に刻むリズム的な要素は存在せず、特定の時代や地域を感じさせる要素もほとんどない。俗に言う「ゾウの墓場」で巨大な象が最期の時を静かに迎えるような、生とも死とも言えぬタルコフスキー的な世界を超絶的な遅さで覆う無時間的な音楽が、約1時間にわたって続いていく。日常生活の中で気軽に聴ける音楽ではない。瞑想体験か、あるいは儀式に近い音楽だ。ほとんど神秘主義としか呼びようのない彼岸の美しさと、現世を静かに諦めるような悲しみを伴った音楽である。ヨハンソン自身は、この作品を「一種のレクイエム」と呼んだと言うが、確かにここには、途方もないほど巨大な悲しみが満ち溢れている。

と同時に、この音楽を聴きながら、僕はヨハンソンと最後にして最初の取材となったスカイプ・インタビューのこと、特に彼がアルバム『オルフェ』について語っていた数々の言葉を思い出した。「基本的にシンプルで力強い要素が、できるだけ少ない手段で最大の効果を発揮するというのが好きなんです」「メランコリックであると同時にオプティミスティックであるような、悲しみと喜びを両方備えたような、幅の広い感情を表現したかったんです。現代は“幸福か絶望か”のように、人間の感情が単純に二分化されることが多いです。でも、かつてメランコリーという言葉には“悲しみの美しい側面”という意味が含まれていました。おそらくそこに、我々が悲劇や悲恋物語を愛する理由のひとつがあるのだと思います」。

これらの説明は、実のところ『Last and First Men』の音楽にもそのまま当てはまる。最小限の手段で最大限の効果を発揮しながら、悲しみと喜びを併せ持つ音楽。その意味においては、これは紛れもないヨハンソンの作品だ。

ところが、ブルーレイに収録された映画版でこの音楽を聴くと――つまりティルダ・スウィントンの朗読と、16mmフィルムの白黒映像と共に鑑賞すると――印象が大きく変わってくる(続く)。
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