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下野竜也指揮 読響第594回定期演奏会 上野耕平(サックス)

下野竜也指揮 読響第594回定期演奏会 上野耕平(サックス)

米露の20世紀音楽を並べたガチンコ対決。ショスタコーヴィチと、彼の薫陶を受けたグバイドゥーリナ。ニューヨーク楽派の異端児モートン・フェルドマンと、現代屈指の売れっ子作曲家ジョン・アダムズ。
  • 前島秀国
    2020.01.16
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1月15日サントリーホール。冷戦はとっくに終わっているのだから、別に勝敗は決めなくてもいいのだけど、この日に限って言えば、ロシア側の勝ち。グバイドゥーリナ《ペスト流行時の酒宴》が圧倒的に面白く、聴き応えがあったからだ。テレビカメラが入っていたので、「読響シンフォニックライブ」で放送されることを期待したい。

演奏順に書いていくと、まずショスタコーヴィチの《エレジー》。と言っても、これですぐに楽想が浮かんでくる人は、相当なショスタコ・ファンだろう。どこかで聴いたことがあると思ったら、35年近く前、NHK-FMでボロディン弦楽四重奏団のショスタコ弦楽四重奏曲全曲演奏会を放送した時の記憶が甦ってきた。確か当時、ボロディンQが発見・蘇演した《2つの小品》の第1曲だ(第2曲はバレエ《黄金時代》の有名な<ポルカ>)。それを弦楽合奏曲として演奏したわけである。本当は<ポルカ>も演奏してよかったのだろうけど、次のアダムズ《サクソフォン協奏曲》とのバランスを考えると、割愛は仕方ないか。

アダムズの曲は、僕の知る限り、すでに2回は日本でも演奏されている。最初に聴いたのは、須川展也がN響と共演したMusic Tomorrow公演だったが、開演直前、ジェームズ・ホーナーの訃報が飛び込んできて、なんだか音楽に集中できなかった記憶がある。当夜のソリストは、若手人気奏者の上野耕平。アダムズのこの曲は、一般に難曲と言われているけど、この日、上野がアンコールで演奏したテュドール《クォーター・トーン・ワルツ》のような四分音やスラップや重音を、アダムズはほとんど使っていない。アダムズの協奏曲が難しいのは、クラシック・サックスがどこまでジャズ・サックスに近づけるか、あるいはクラシック・サックスはジャズ・サックスから何を吸収し、それをどう活かすかという課題が演奏者に問われているからである。下野指揮読響は、1音符たりともおろそかにしない、とても丁寧な演奏だと思ったし、身体にアダムズの音楽を叩き込んでから演奏に臨んだ上野も大奮闘していた。だけど、そこに“ジャズ”を感じることが出来たかと言えば、僕は出来なかったと正直に告白する。というか、この作品に限らないが、アダムズの協奏曲作品のソロは、一種のエンタテイナー的な要素が要求されるというか、そこまで振り切ってやらないと、曲の真価が引き出せないんじゃないかと思う。簡単に言うと、もっと“アメリカ”な要素が欲しかった。

後半は、確かアダムズも親交があったはずのフェルドマン《On Time and the Instrumental Factor》(日本初演)。演奏時間わずか8分なのに、すごく長く感じた聴衆は僕ひとりだけではなかったはずだ。そりゃそうですよ、題名に「時間と、楽器上の要素について」と明記してあるんだから。その2つを同等のものとして扱うという、フェルドマンの狙いはよく表れていると思った。だけど、フェルドマンの大編成作品といては、後年彼が書くことになるオペラ《Neither》や管弦楽曲《コプトの光》の域にはまだ達していない習作かな、という印象を持った。

で、最後のグバイドゥーリナ《ペスト流行時の酒宴》(日本初演)。曲の構成自体は非常にシンプルで、ショスタコ風のモティーフ(交響曲第8番~第1楽章の序奏のモティーフによく似ている)を何度も繰り返しながら、手を替え品を替え、つまりさまざまな楽器の組み合わせで変奏していくわけだが、途中、グバイドゥーリナお得意のテープ音楽が何の脈絡もなく乱入してくる。クラシックを演奏していたら、突然ホールのスピーカーからクラブ・ミュージックの爆音がミスで鳴り響いてしまったという感じだ。オケとテープは調和せず、妥協せず、最後までお互い異質のまま、コーダの“大宴会”に突入する。ほとんどの聴衆は「テープ要らない」と思ったかもしれない。いや、これはテープが無かったら、単なる“ショスタコの跡継ぎ”で終わってしまうだろう。テープに邪魔されるから、モティーフの繰り返しを必死にやることの意味が出てくる。いいねえ。こういうの大好き。下野さん、ブラボー!
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