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ラヴェル最後の十年間 - 転落と空白のボレロ [Ritornèllo]

ラヴェル最後の十年間 - 転落と空白のボレロ [Ritornèllo]

ジャン・エシュノーズの小説『ラヴェル』(関口涼子訳、みすず書房 2007)を思い出して。
  • 青澤隆明
    2020.01.07
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 それで、ジャン・エシュノーズが書いた『ラヴェル』という小説のことを思い出して、久しぶりに本棚から手にとったら、ひといきに読み進むことになった。原著刊行の翌年、2007年に関口涼子のすばらしい日本語訳が出版されて、それはちょうどラヴェルの没後70年にあたる年だった。というようなことをうっすらと思い出しながらも、当時はさらっと読んてしまった覚えしかないのだが、ほんとうはどうだったのか。改めて読み通してみると、悲しみが浸みとおるようにやってくる。あるいは、ぼくはいちどは読みながら、この哀切を忘れようとしていたのではないかという気さえする。

 ラヴェル晩年の出来事が描かれた小説である。初めてアメリカへと旅立つ日からを始まる十年間の物語。戦間期のフランスの発熱のさなかだ。伝記的なことは想像を交えて、さまざまな発言や証言についてはすべて引用で織りなす、という仕立てで書かれた小説である。アメリカを旅して、フランスに戻り、「ボレロ」と、2つのピアノ協奏曲が書かれる。トスカニーニやパウル・ヴィトゲンシュタインがラヴェルの意に反した演奏をくり広げたことなども盛り込まれている。
 
 いずれにしてもオーケストレーションを限定した実験、そして長年置いてあった協奏曲の課題をラヴェルは果たした。そこへ、深夜のタクシー事故が降りかかり、それ以後の彼の健康状態の悪化と、いってみれば彼という人間の空白化が、静かな筆致だけにひたひたと迫ってくる。
 
 カタストロフとしか言えない空虚が、音楽家として、人間としてのラヴェルに憑りついて離れない。ボレロの終局、急下行の転落の後に、休符が続いて、いつまでも茫然と口を開けているように。
 ボレロについて小説が語るとおりだ。「つまりそれはひとりでに壊れていくものであり、音楽のない楽譜、製品なしのオーケストラ工場であり、音の拡大だけを使った自殺行為だ。希望もなく何も期待するものもなく」。

 執拗な持続も反復も、ここでは空転を緩やかに加速していくばかりだ。事故後の脳の障害というかたちで、ラヴェルは虚無の空白へと沈んでいく。それは音楽のはじまりにあったものか、それとも音楽の終焉によって生じたものか。いずれにしても、悲痛をきわめている。

 さて、パウル・ヴィトゲンシュタインが出てきたところだし、トーマス・ベルンハルトの『ヴィゲンシュタインの甥』に進もうと思ってさわりだけ読み出した。片腕となったピアニストとは同名の、その晩年にベルンハルトの親友となった甥っ子の話のようだ。もちろん哲学者ルートウィヒの甥っ子でもある。しかしページを捲るうち、この小説全体が一段落で書かれていそうな気がして、確認してみるとやはりそうなので、機会を改めてひといきに読みとおすことにする。
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