人生を変えた音楽 - 怒りと飢えのボレロ  [Ritornèllo]

人生を変えた音楽 - 怒りと飢えのボレロ [Ritornèllo]

ラヴェルのボレロが語りかけたもの。ル・クレジオ、村野美優訳『飢えのリトルネロ』(原書房 2011)をめぐって。
  • 青澤隆明
    2020.01.06
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 あの音楽が人生を変えた。と言い得るのは、音楽を聴いているさなかのことか、それとも後になって、それをはっきりと意識するときのことか。前者ならば、変える、または変えるだろう、と語られることになる。人はそのときのことを思い出すように、改めて現在の体験に刻む。

 「幸せであるというのは憶えている必要がないということだ。」と、ジャン・マリー・ギュスターヴ・ル・クレジオは書く。「ぼくは飢えを知っている」と語り出される小説『飢えのリトルネロ』(村野美優訳・原書房刊)のなかで。だとすると、ある音楽を憶えている、というその必要は、そのとき幸せではなかったということの反証ともなるのだろうか。

 この物語のはじまりとおわりに登場する「ぼく」に、「母」はラヴェルの「ボレロ」の初演に立ち会ったときの様子を語る。そして、本小説の最後の場面は、ボレロの最後の小節と重ねられている。もちろん、「ボレロ」の最後の小節は、8分音符で断ち切られた転落、その後は休符。つまりは、以後の空虚ともいえる静寂の序章である。

 しかし、公演ではそのようにはいかない。初演時の喝采や熱狂や野次は、静けさも沈黙もゆるさない。転落のあとには、圧倒的な衝撃が打ちつけられたままに残されるのだから。生き残った者を呆然とさせた恐ろしい沈黙--その意味が物語るのは不可逆の発熱、その10年の後に迫る戦禍への予言である。

 「ぼくは心ならずも二十歳の英雄であった若い娘の霊に捧げて、ぼくはこの物語をしるした。」と結ばれるこの小説の最後に臨み、語り手はその直前にひとつの事実を明かす。「同じホールのどこかには、母か一度も会ったことのない青年、レヴィ=ストロースがいた」と。
 
 少しだけ補っておくと、パリ・オペラ座でイダ・ルビンシテイン一座が初演したのは1928年の11月で、レヴィ=ストロースが20歳を迎える数日前の出来事だった。つまり、「ぼくの母」と彼とは同年代である。語り手はいま理解していると告げる、「母の世代にとって、リズムとクレッシェンドによって圧倒し、執拗にくり返されるあのフレーズが何を意味していたのかを」。「それは怒りと飢えの物語を語っている」。

 そして、これを聴いたことをきっかけに、かの青年は大著をなす『神話論理』の執筆へと向かった。1970年代にレヴィ=ストロース自身がル・クレジオにそう語ったのだという。執拗な主題の反復が煽り立てたものは、文明が引き起こす近代戦争への傾斜だったのだろうか。しかし、ひとりは「神話論理」を著し、もうひとりはその子に、はるか先、80年近く後に、小説によるリトルネロを書かせることになった。

 さて、『飢えのリトルネロ』が発表されたのは2008年、レヴィ=ストロースが100歳を迎えることになる年のことだ。そして、この本を出してまもなく、小説家はノーベル賞を受けた。そのル・クレジオも春になれば、80歳を迎える。
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