音楽の半分くらい- 仲井戸麗市『一枚のレコードから』 をひさしぶりに

音楽の半分くらい- 仲井戸麗市『一枚のレコードから』 をひさしぶりに

ニューヨークにルー・リードがいるように、東京、いや新宿には仲井戸麗市がいる。音楽を聴く、ということ。歳月を生きる、ということ。 本〇仲井戸麗市『一枚のレコードから』(ロッキング・オン)  CD◎Robert Johnson "The Complete Recordings”(Columbia) ◎仲井戸麗市『絵』(東芝EMI) ◎ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団『モーツァルト:レクイエム』(DG) 
  • 青澤隆明
    2020.04.07
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 音楽の半分は、こちら側にある。
 半分くらいは。もっとかもしれない。もしかしたら、ほとんどかも。

 音楽を聴くとは、つまるところ、そこから自分がなにを受けとったかということだ。それで音楽のほう、それ自体は変わることはない。変わるのはこちら、聴き手のほうである。
 もちろん、結論を急ぐべきではないから、しっかりとみることは大事だが、かといってそれが直観的ななにかを超えることもない気がする。強くする。精確さではなく、そういう意味での確かさが必要だ。そうした音楽がぼくたちを生かし、ぼくたちのなかで生きている。

 ある春の日、仲井戸麗市の『一枚のレコードから』を本棚からひさしぶりに手にとって、ゆっくりと読み歩いていった。そこに彼はいた。そして、彼はそこにいる。そこは、そのまま地続きにここだ。ずいぶん遠くまでやってきたようで、それは変わらない強さを深め、歳月の分の濃さを帯びている。
 音楽を生きることで、聴き手はそのように生きているのではないか。たとえば、仲井戸麗市の『絵』も、ぼくにとって、そうしたかけがえのない一枚のレコードだ。

 この本のなかに、クラシック音楽で出てくるのは、それこそ一枚のレコードだけ。だけど、大切な、“どこでもないどこか”、“誰でもない誰か”のための、音楽。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、モーツァルトのレクイエム。おそらくヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮したLPレコード、いまにも流れてきそうな……。

 さて、この本を読んでいるうちに、ぼくがやりたくなったことはいくつかある。それを近いうちに実行するつもりだ。まずは、ロバート・ジョンソンの『ザ・コンプリート・レコーディングス』を一日中聴いていよう。10代のときの自分を確かめるためにも。それから古いギターのチューニングだ。
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