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くろださんのいるところ

くろださんのいるところ

音楽評論家の黒田恭一さんが世を去って10年、それを記念して開かれたコンサートを機に、音楽への愛と感謝を大切にした黒田さんの評論を振り返ってみる。
  • 寺西基之
    2019.11.27
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 クロキョウさんの愛称で親しまれた音楽評論家、黒田恭一さんが亡くなって10年になる。その黒田さんを偲んで「くろださんのいるところ」と銘打ったコンサートが11月19日東京・銀座の王子ホールで開かれた。黒田さんが高く評価していたハープの吉野直子、ギターの鈴木大介、チェロの長谷川陽子、ピアノの塩谷哲が黒田さんへの思いのこもった演奏を披露、会場には親交のあった多くの業界人や文化人が集まり、終演後ロビーでのレセプションで黒田さんの思い出話に花を咲かせるという、まさに黒田さんにふさわしい地味ながらもとても暖かな雰囲気のイベントとなった。
 本欄で取り上げるのは、そのコンサートの批評ではない。この催しをとおして黒田さんのことがいろいろ思い起こされ、改めて黒田さんの業績について簡単に触れてみようと思った次第である。
 コンサートの途中には長年の盟友だった広渡勲氏のお話しのコーナーが設けられた。その中で広渡氏は、黒田さんがとにかく音楽に対する愛情、感謝の気持ちを持っていたことを述べられていたが、そのとおり、黒田さんは本当に音楽への愛を何よりも大切にし、そこを原点に評論活動を行なった人だった。
 私自身が黒田さんの評論に親しむようになったはまだ10代の頃だった。当時ラジオ技術社から毎月出ていた「ステレオ芸術」という雑誌を愛読しており、その執筆者の中心のひとりが黒田さんだったのである。この雑誌はよく宇野功芳や福永陽一郎らの舌鋒鋭い評論で話題になり、それももちろん面白かったのだが、彼らとはまったく対照的な、とても柔らかな口調による黒田さんの文章が私は特に好きだった。他の執筆者たちの評論には感じられないような、ただただ純粋に音楽が好きでたまらないという思いが伝わってくるような文章におおいに共感を覚えたものである。
 そうした文体ゆえだろう、黒田さんは「とても温厚な評論で、めったに厳しいことを言うことはなかった」(ウィキペディア)というイメージで捉えられることが多い。しかしそれはまったく違う。優しい言い方の中に、問題点をぐさりと衝くような指摘が含まれていることがよくあり、全体がソフトな言葉遣いだけになおいっそうそれは響くものがあった。そしてその指摘は、まさに音楽への愛に発するものであった。
 例えば黒田さんは、評論家も含めた聴き手に対して、しばしば批判的な意見を述べている。演奏に対して、作品に対して、自分の持つ観点からのみで良否を判断することは黒田さんの最も嫌うところで、聴き手は、音楽に対して謙虚に、広い視野を持って接するべきであると力説していた。「音楽の感じ方が深まれば、それだけしなやかに音楽が楽しめるようになって、悪しき審判官的きき方からのがれられる。しかしききてはしばしば、悲しいことに、音楽をきかせてもらっている自分を忘れ、高飛車に音楽を裁こうとする」(黒田恭一「クラシックのおすすめ」音楽之友社)という一文などは、特に同僚である評論家や批評家へ向けての厳しいメッセージであろう。黒田さんとゆっくりお話しをさせていただく機会も多かったが、評論家にもファンにも一面的な批評をする人が多いのは音楽に対する愛や謙虚さに欠けているからだとこぼすことがしばしばだった。「ちょっと別な見方をすれば別のすてきな世界がまた広がっていく。音楽を本当に好きならばそうした見方ができるはずなのに」という言葉は今も印象に残っている。
 もちろんそれは決してどんな演奏でも認めるということでも、演奏に対して甘く接するということでもない。黒田さんは演奏家に対してもやはり、音楽への愛を持っているかどうかを最も重視していた。単に自己の技巧をみせびらかすために弾いているような演奏家、作品への共感を欠いた機械的な演奏、十分な準備をしていないようないい加減な演奏などに対しては特に厳しかった。「演奏者の安易な受けねらいは、演奏者みずからを貶めるだけではなく、聴衆の向上心に水をかけることにしか役立たないことを、演奏者も、それを享受する聴衆も知るべきだろう。…演奏者は聴衆を舐めたらいけない。聴衆は演奏者を甘やかしたらいけない。慣れあいの間柄では一気に音楽の品位が失われる」(産経新聞社「モーストリー・クラシック」2008年10月号)。音楽の品位を大切にすること、その姿勢のみられない演奏は音楽を衰退させるだけと述べていた。
 このように音楽を愛しその品位を尊重すること、そのことは、クラシック音楽の裾野を広げようとする近年の安易な様々な動きに対する警鐘にもつながっていく。たしかに黒田さんはクラシック音楽の底辺を広げる啓蒙的な評論家として知られてきたし、それは事実だろう。しかしそれはただやみくもに音楽を大衆化するということではない。ここでもやはり黒田さんにとって大切なのは音楽への愛情、芸術を尊重する姿勢であり、その前提なしに音楽の本質とは関係のないところでただ聴衆を増やそうという近年の動きをとても憂慮していた。「主催者が集客に熱心になりすぎると、彼らがマントに隠しておくべきソロバンが見え隠れしてしまい、その結果、主催者は芸術の仲立ちとしての立場を失い、興行師に変身する」(「モーストリー・クラシック」2007年9月号)といったコンサートの主催者に対する言葉はその現われだ。クラシック・ファンを増やすべく演奏家が聴衆に親近感を持ってもらおうと演奏会の合間にトークを挟むようになった風潮に対しても、「音楽には関係ないこと」と切り捨て、「電気のお世話にならないで演奏可能な音楽を奏でている音楽家たちは、安易にマイクロフォンに手を伸ばすべきではない。あんなに熱心にリハーサルをして、あんなに集中して奏でた演奏の微妙な味わいが、拡声した声を会場内にとどろかせることによって、ききてに伝わりにくくなるということに、演奏家であれば、きづくべきである」(「モーストリー・クラシック」2007年4月号)と厳しかった。
 残念ながら今日の音楽界の状況は、一方で自分の視点で評価できるもの以外は認めないという偏狭な聴き方が依然として(むしろネットという媒体が普及したことで以前にも増して、といえるかもしれない)広くみられるとともに、他方ではやたらクラシックの裾野拡大と称して安易に音楽を扱い、ただ消費するといった傾向がさらに加速しているようだ。没後10年の今回のコンサートに臨席しながら、穏やかな優しい口調のうちに音楽への深い愛ゆえの厳しい意見を語っていた黒田さんの声が私の心のうちに蘇ってきて、そうした今だからこそ改めて黒田さんの言葉に耳を傾け、その意味の重さに思いをいたすことが必要であることを痛感した。黒田さんは過去の人ではない。その教えは今日ますます切実な問題としてわれわれに迫ってくる。
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