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若き姉弟デュオが奏でた50年前の名演

若き姉弟デュオが奏でた50年前の名演

岩崎洸&岩崎淑によるベートーヴェンのチェロ・ソナタ&変奏曲全集
  • 寺西基之
    2020.01.08
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 今年2020年はベートーヴェン生誕250年ということで、様々な形でベートーヴェンが取り上げられる年となるに違いない。個人的には250年と聞くと、1970年の生誕200年から半世紀経ったのかという感慨にとらわれてしまう。当時私はまだ中学生だった。社会状況も音楽を取り巻く環境も今日とはまったく違っていた時代だったが、やはり生誕200年ということでベートーヴェンは一大ブームとなっていた。中学生の時に感じたことなので必ずしもあてにならないかもしれないが、今日以上にそれは熱かったように思われる。演奏会でもサヴァリッシュ指揮N響による交響曲全曲とミサ・ソレムニス(近年CD化された)のツィクルス、ケンプのピアノ協奏曲全曲(これもCDで出されている)とソナタ全曲のツィクルスをはじめ、内外の演奏家がこぞってベートーヴェンを取り上げていた記憶があるし、LPレコードではグラモフォンと東芝EMIからそれぞれにベートーヴェン作品全集が出されて大きな話題となっていた。有り余るほどの録音が出回りCDのボックスセットも廉価で手に入る今日とは違い、LP一枚一枚が貴重だった当時としては破格ともいえる膨大な規模の全集(前者は全12巻78枚、後者は全24巻87枚)だったので、それも当然だろう。もちろん当時中学生の私がこれらの全集に手が出せるわけもなく、両者の広告パンフレットを机に飾って眺めていただけだったのだが、それでも夢があって楽しかった。
 この2つの全集は既存の録音と新録音を併せて構成されたもので、新録音の目玉としてはグラモフォンの全集ではベーム指揮の「フィデリオ」、東芝EMIの全集ではギレリスとセルの共演による5曲のピアノ協奏曲があった。また東芝EMIのほうは音源のない曲を日本人演奏家による新録音で補っていたのが特徴で、記憶違いでなければ内田光子のデビュー盤ともなったピアノ協奏曲第0番や若杉弘によるカンタータも含まれていたように思う。

 その東芝EMIの日本人による新録音として、チェロとピアノのためのソナタおよび変奏曲の全曲の巻を受け持ったのが岩崎洸と岩崎淑の姉弟デュオだった。チェロ・ソナタ全曲といえば全集の中でもメインとなる巻のひとつである。すでにミュンヘン国際コンクールなどで上位入賞を果たしていた実績もあったにせよ、メイン曲は外国の大家による演奏で構成されていたこの全集で、まだ若手だった彼らが起用されたことは、まさに大抜擢だったといってよい。それほどまでにこの姉弟コンビは当時新進気鋭のホープとして注目されていたことがうかがえよう(この録音後、1970年のチャイコフスキー国際コンクールのチェロ部門で岩崎洸は第3位に輝き、その時伴奏を受け持った淑は伴奏者特別賞を受けた)。
 実はこのチェロ・ソナタの巻は、私の父が彼らをよく知っていたこともあって発売と同時に父のもとに届き、おかげで私もそれを手にすることが出来た。暗い焦げ茶色の立派なケースに入ったLPレコード3枚組で、ケースの表には金色でベートーヴェンのサインが刻印され、また盤面中央のレーベル部分も金色で、そこにベートーヴェンの肖像画が描かれていたのがとても気に入ったものだ。
 このレコードをとおして私はベートーヴェンのチェロ作品に初めて触れることになったのだが、最初に聴いたソナタ第1番でもうすっかりその世界の虜となり、5曲のソナタと3曲の変奏曲を全部一気に聴きとおしてしまったことを覚えている。まだこの頃の私は演奏の評価をできるまでの耳は持っていなかったが、岩崎姉弟のこの演奏にはなにか惹かれるものがあり、当セットは当時の私の愛聴盤となったのである。
 やがてCDの時代となってLPレコードを聴くことがなくなっていったことで、このセットも他の多数のレコードとともに書庫の奥のほうに仕舞いこんだままの状態になってしまったのだが、今年ベートーヴェン250年ということで50年前のことに思いを致した時、無性にこのセットを聴きたくなった。そこで元日に書庫の隅からこれを探し出し、本当に久しぶりに針をとおした。蘇ってくるあの懐かしい響き。いや決して懐かしさではない。改めて今の耳で聴いても、この演奏は実にフレッシュな魅力に満ちている。息のぴったり合った2人の奏でる音楽は清楚でストレートながら、決して一本調子になることがなく、表情やテンポの微妙な揺れが生命の宿った瑞々しい音楽を生み出している。伸びやかな淀みのない流れの中で楽興が湧き上がるかのようで、清冽で生き生きとした旋律を紡ぎ出していく洸のチェロと、細やかな美音の動きの中にデリケートな陰影がきらめく淑のピアノが一体化したアンサンブルを作り上げているのがすばらしい。1970年当時はとかく壮大な大ソナタとして演奏されるきらいのあったソナタ第3番も大上段に構えることなく自然体に清新な息吹を吹き込んでいるし、後期の第4番と第5番も同様。第5番のフーガにみられる軽妙さも実に清々しい。とりわけ優れているのがソナタ第1番と第2番、および変奏曲3曲で、初期のベートーヴェンにふさわしく、はじけるような若々しさに満ちた活力ある名演となっている。
 この全集がこれまでCD化されてこなかったのはなぜなのだろう。何らかの理由があるのかもしれないが、これだけの演奏をお蔵入りにしたままにしておくのはあまりにもったいない。ベートーヴェン・イヤーの今年、このアルバムが復活することは望めないのだろうか。
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