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小山実稚恵が満を持して挑んだベートーヴェンのソナタ初録音

小山実稚恵が満を持して挑んだベートーヴェンのソナタ初録音

新譜CD《ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101、第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」》小山実稚恵(ピアノ)[ソニークラシカル SICC19050]
  • 寺西基之
    2020.07.31
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ベートーヴェン・イヤーで盛り上がるはずだった今年の音楽界だが、新型コロナウィルスのおかげで演奏会は次々と中止、様々なベートーヴェン企画もほとんどが実現されていない。しかしながらその中でも注目すべきベートーヴェンの新譜CDはいくつも出されている。小山実稚恵のこの一枚も、ベートーヴェン・イヤーを飾るにまさにふさわしいアルバムである。曲目はピアノ・ソナタの第28番イ長調作品101と第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」、後期へと向かう時期のベートーヴェンの新しい境地がはっきりと現われ出た傑作2曲だ。

実はこれは小山実稚恵の初のベートーヴェンのピアノ・ソナタの録音となる。すでに長い演奏歴を持ち、多数のCDを世に送り出してきた彼女だけに、今回がベートーヴェンの初レコーディングとはやや意外な感もするが(正確には昨年、「エリーゼのために」ほか小品2曲を今では珍しい7インチ(17センチ)・45回転のEP盤用に録音している)、演奏会では折に触れていくつかのソナタや協奏曲を取り上げてきたことからもわかるように、彼女はベートーヴェンを決して敬遠してきたわけではない。たしかに外から見れば、例えばショパンやラフマニノフほどには、あまりベートーヴェンには積極的に取り組んでいないように思えることは事実だろう。だがそれはむしろこの大作曲家の偉大さを認識しているからこそであり、その音楽を時間をかけてじっくりと掘り下げたいという姿勢が、ベートーヴェンに取り組むことへの慎重さにつながっていたと思われる。

彼女がこれまでもいかにベートーヴェンの作品を考察し続けてきたかは、最近音楽之友社から刊行された全2巻の《ベートーヴェンとピアノ》(第1巻〈「傑作の森」への道のり〉;第2巻〈限りなく創造の高みへ〉)に現われている。この書籍は小山とベートーヴェン学者の平野昭との対談集で(もともと〈音楽の友〉誌に連載されたものがもとになっている)、全ソナタを中心としたベートーヴェンのピアノ曲(ピアノ協奏曲、ピアノが入る室内楽なども含む)について、作品ごと作曲順に、平野が学問的な見地から、小山が演奏家としての見地から語り合うことをとおして作品の真髄に迫るというもの。読み応え充分でベートーヴェンの音楽に興味のある人ならば一読をお勧めしたいが、これを読んでも、小山がこれまでベートーヴェンの研究を重ねてきたことは明らかだ。ベートーヴェンがとりわけ重要な存在だからこそ、自らのうちに暖めてきたのだろう。

そして機が熟したかのように、彼女は昨年から東京・渋谷のオーチャード・ホールでベートーヴェンの後期作品を中心とするリサイタル・シリーズ「ベートーヴェン、そして…」をスタートさせた。自身の中で熟成させてきたベートーヴェン解釈をシリーズとして世に問おうという意気込みがそこに見て取れる。それと並行する形でベートーヴェンの初レコーディングもなされたのである。

実際このCDに収められた2つのソナタにおいて小山実稚恵は、強靭さと細やかさを併せ持つ自身のピアニズムを後期のベートーヴェンの壮大かつ深遠な音楽性に結び付けて、自らの揺るぎないベートーヴェン像を打ち立てている。芯のある音ですべての音符を明晰かつ画然と弾き込みつつ、その中で響きのグラデーションを生かして濃やかな表情の変化を生み出しているところがいかにも彼女らしく、がっしりとした造型と細部の彫琢された表現が一体化された名演だ。第28番の第2楽章とフィナーレや第29番の第1楽章におけるダイナミックな広がりとその起伏の中に息づく豊かな感興、第28番の第1楽章でのじっくりとした歩みとフレーズの絶妙な間合いの取り方のうちに感じられる深い思索性など、表現の幅が実に多様で、第29番のフィナーレのフーガでは、どの声部も常に明瞭に引き立てて声部間の丁々発止なやり取りを際立たせ、多層的な音の綾が生み出す緊張に満ちたドラマを見事に引き出している。第29番の第3楽章も、遅すぎないテンポをとることによって必要以上にロマンティックな濃厚さに陥ることを避けつつ、しかもディテールに至るまでの考え抜かれた豊かな表情付けで時間的・空間的な広がりを作り出すことによって、後期のベートーヴェンにふさわしい深遠かつ内省的な世界に肉迫していて、まことに感動的。2曲ともにベートーヴェンの偉大さを改めて感じさせる演奏であり、満を持して録音に取り組んだ小山のベートーヴェンに対する思いが結晶化されたアルバムとなっている。
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