ネマニャが弾くハチャトゥリアン、長谷川が吹くマーラー

ネマニャが弾くハチャトゥリアン、長谷川が吹くマーラー

2月1日、山田和樹指揮の読響第224回土曜マチネーシリーズ(東京芸術劇場)。いわゆる名曲集に終わらないプログラミングが素晴らしかった。
  • 前島秀国
    2020.02.10
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最初に、もともとマーラーが交響曲第1番《巨人》の第2楽章として作曲した《花の章》を序曲的に演奏し、続いてネマニャ・ラドゥロヴィチをソリストに迎えたハチャトゥリアンの大作《ヴァイオリン協奏曲》。プログラム後半のマーラー《巨人》はおなじみの形態、すなわち作曲者が《花の章》を割愛した後に改訂した4楽章版の演奏。前半のアンコールは、ネマニャがバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番》~「サラバンド」。後半のアンコールは、マーラー編曲のバッハ《G線上のアリア》。その結果、“マーラーとバッハ”という裏テーマがプログラムから透けて見えてくるという、とても知的で音楽的な構成だった。

特に最初の《花の章》は、首席トランペット奏者・長谷川潤のソロが聴けただけでも大収穫だった。メインテーマを吹く彼のソロがホール全体を優しく包み込んだ瞬間、「ああ、これがマーラーのトランペットなのだ」と即座に思わせる説得力がある。周知のように、マーラーの交響曲においてトランペットは特別な意味を持つ楽器である。この《花の章》を起点に、交響曲第10番のアダージョのA音の絶叫に至るまで、ある意味でマーラーの交響曲史はトランペットの変遷史といっても過言ではない。長谷川のトランペットには、単に美しい音色を響かせるという次元から一歩踏み込み、マーラーという作曲家の全体像まで浮かび上がらせる深い共感が感じられた。無論、そうした彼の深い共感は、これまでの読響でのマーラー演奏体験に裏打ちされているわけだが、逆にこういう素晴らしいソロを聴くと、また初期の交響曲から後期の交響曲まで彼のソロでマーラー・チクルスを聴いてみたいという衝動にも駆られる。こういう奏者を擁しているのは、お世辞でも何でもなく、楽団の財産だと思う。

日本でも高い人気を誇るセルビア生まれのヴァイオリニスト、ネマニャ・ラドゥロヴィチが20世紀に書かれたヴァイオリン協奏曲の演奏を日本で披露するのは、2011年のプロコフィエフの第2番に続き、今回が2度めだと思う(メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ブルッフはすでに演奏している)。ハチャトゥリアンはソリストに大変な超絶技巧とエネルギーを要求する難曲だが、ネマニャはこれ見よがしのショーピースに終わらせず、彼独特の美音を理性的に響かせながら、あくまでもオケと一体となった高度なアンサンブル曲として演奏してみせた。これぞ協奏曲の醍醐味である。

2年前ほど、彼がハチャトゥリアンのCDをリリースした時に、ライナーノーツを書くため、このヴァイオリン協奏曲の作曲の背景を徹底的に調べ直したことがある。その時にわかったのは、この曲の第2楽章の主題が、1938年にハチャトゥリアンがハモ・ベクナザリアン監督のアルメニア映画『Zangezur(ザンゲズル)』のスコアを転用していること(映画ではチェロ独奏によって導入される)、しかもその主題が流れてくるのが、敵味方に分かれたアルメニア人同士が銃を向け合うドラマティックなシーンだということだ。映像が手に入ったので、ネマニャにインタビューした時、その映像を実際に見てもらった。見終わった後、ネマニャは「だからこの第2楽章が、あれだけエモーショナルな音楽として書かれている理由が初めてわかりました」と呟いた。

あれから2年。終演後、楽屋のネマニャに挨拶しに行くと、開口一番、彼は興奮気味に話し始めた。
「あの時のインタビューで見せてもらった映画のこと、覚えていますか? 実はあれから、ハチャトゥリアンを世界各地のオーケストラで演奏する時、いつもリハーサルであの映画のことを話すようにしているんです。ロシアのオーケストラに客演した時も、団員はみんな誰も知らないと言っていました。教えていただき、本当に感謝しています」

音楽業界の片隅にいる筆者のような文筆業者の些細な仕事が、彼のような名演奏家の演奏に少しでも役に立ったとしたら、これほど嬉しいことはない。
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