久石譲指揮ワールド・ドリーム・オーケストラを聴いて(その2)

久石譲指揮ワールド・ドリーム・オーケストラを聴いて(その2)

緊急事態宣言発令により、はからずもツアー最終日となってしまった久石譲指揮新日本フィル ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)の4月24日公演より、プログラム前半に演奏された久石の《交響曲第2番》(世界初演)の演奏評。
  • 前島秀国
    2021.04.26
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《交響曲第2番》は、もともと2020年9月にパリとストラスブールで世界初演が予定されていた作品だが、コロナ禍により世界各地での演奏が2022年4月以降に延期されたため、今回のW.D.O.公演が世界初演となった。第1楽章のタイトル「What the world is now?」に端的に表れているように、昨年のパンデミックの最中に久石が作曲した作品である。

私見では、《交響曲第2番》は近年久石が演奏会用作品で好んで用いている変奏曲形式への関心と、数え歌もしくはわらべ歌のようなシンプルな旋律からいかにシンフォニックな音楽を構築していくかという実験を試みた作品だと思う。全体は3楽章からなるが、3つの楽章すべてが変奏曲形式で書かれた交響曲というのは、ほとんど皆無ではないかと思う。もともとミニマル・ミュージックはーー主題なりモチーフを繰り返しながらそれを変形していくという意味でーー変奏曲形式と相性がいいし、そもそもミニマル自体が変奏技法のひとつなのではないかとみなすことも出来る。とは言え、それぞれの楽章の変奏形式に工夫を凝らし、飽きがこないように構成しなければ、交響曲として成立しない。その危険を敢えて承知した上で変奏曲形式にこだわりつつ、ミニマリストならではの交響曲を書き上げたところに、作曲家としての久石の野心が見える。

第1楽章「What the world is now?」は、全曲の中で最も凝集度の高い変奏曲として書かれており、リズムを重視した推進力あふれる音楽という意味では、ベートーヴェン的なアプローチと言えるかもしれない。最初にチェロで変奏動機がはっきり導入されるので、音楽の流れ自体は非常に追いやすい。ただし、実際の変奏プロセスは大変に濃密であり、オーケストラ内で複数の変奏が同時多発的に起こっているような印象すら受ける。にもかかわらず、楽章全体を貫くリズムは常に淀みなく進んでいくので、いわば車窓の眺めに見惚れているうち、気がついたら目的地に着いていた、という感じである。その眺めは自然の風景というより、オーケストラという“工場”のあちこちから色鮮やかなライトが明滅する“工場夜景”と表現したほうが適切かもしれない。しかもその“工場”は、夜間にも関わらずフル回転しているのである。

ユーモアにあふれた第2楽章「Variation 14」は、いわばスケルツォ楽章の役割を果たしている。テーマと14のヴァリエーションで構成されており、形式的には伝統的な変奏曲に最も近い(つまり各変奏のキャラクターがはっきりしている)。個人的には、いくつかのヴァリエーションでガーシュウィンやバーンスタインの匂いを感じた。その理由のひとつは、それらのヴァリエーションで中南米風の打楽器が活躍するからだと思う。厳密にはワールド・ミュージックではないけれど、南国な日差しを思わせるカラフルなオーケストレーションの効果は絶大で、理屈抜きに楽しく、ノレる。昨年の「Music Future Vol.7」で室内オーケストラ・ヴァージョンを聴いた時、このキャッチーな楽章は久石の近年の代表作のひとつになるのではと確信したが、今回の正式な世界初演を聴いても、その確信は全く変わらなかった。

そして、全曲の中で最も長い第3楽章「Nursery rhyme」(約15分)は、驚くべきことに《かごめかごめ》風のわらべ歌(厳密には全く同じではなく、多少変形が加えられている)を主題を用いた変奏曲として書かれている。常識的に考えれば、この種のわらべ歌を主題にして管弦楽のための変奏曲を書く場合、意識的にせよ無意識的にせよ、子供の声域に近い音域で最初に主題を導入するだろう。ところが、久石はその裏をかき、子供の声域から最も遠いコントラバスのソロで主題を重々しく導入するのである! その主題はわらべ歌というより、まるで哀歌か何かのように足を引き摺りながら、低弦部によって変奏が加えられていく。この部分を聴いて、僕は即座にヘンリック・グレツキあるいはアルヴォ・ペルトの音楽を思い起こした。つまり、ホーリー・ミニマリズム特有の“東欧の悲しみ”が、このアダージョの変奏部分にはっきりと現れている。我々日本人は、変奏主題が《かごめかごめ》に由来すると認識するので、いっそう大きなショックを受けるかもしれない。だが、そうした文化的背景を持たない海外のリスナーが聴けば、また違った印象を受けるだろう。

アダージョの変奏が続いた後、第3楽章は途中からアップテンポになり、同じ主題を用いた変奏がエネルギッシュかつダイナミックに展開されていく。今までのアダージョの部分を4楽章形式の交響曲の緩徐楽章とみなせば、この《交響曲第2番》は実質的に4楽章形式で書かれた作品と捉えることも出来るし、あるいは、アダージョの部分が伝統的なソナタ形式の主題提示部、アップテンポの精力的な変奏部分が展開部と考えることも出来る。要は、その2つの側面を備えているわけで、これは非常に面白い作曲上のアイディアだと思った。アップテンポの部分が巨大なクライマックスを築き上げた後(ここで曲が終わったと感じた聴衆も少なからずいたようである)、改めて変奏主題がマエストーソでーー楽譜にそう指示されているかどうかわからないがーー再現し、荘重かつ誇り高く変奏主題が演奏される。そしてコーダでは、変奏主題は再びコントラバスの静かなソロに回帰していく。

大変にドラマティックな構成を持つ楽章であり、それが変奏曲であることを意識しなくても、音楽から伝わってくる物語性に圧倒された。もし、僕が海外の音楽評論家だったら、例えばこんな風に書くかもしれない。「久石は、江戸時代から伝わる童謡主題を悲痛に導入することで、第2次世界大戦で日本人が受けた悲しみを前半部のアダージョで象徴した後、主題のエネルギッシュな変奏によって20世紀後半の日本の経済的成長と躍進をダイナミックに表現し、さらにその主題をサムライのようなマエストーソで今一度再現することによって、日本人のアイデンティティの在り処を問いかけているのかもしれない」。これはあくまでもひとつの解釈だが、聞き手は自分の関心と音楽的経験に応じて、この楽章からさまざまなストーリーを引き出すことが可能である。

同時にこの《交響曲第2番》は、オーケストラにとってのリトマス試験紙のような性格を持つ作品として書かれているのではないか、という印象も受けた。今回世界初演したW.D.O.すなわち新日本フィルは、どの楽章も精緻に、かつ真摯に演奏していたが、普段からミニマルを得意としているオケならば第1楽章は全く違った感触になるだろうし、ラテン的な性格の強いオケならば第2楽章はもっと“遊び”が出てくるだろう。第3楽章の東欧的なアダージョに敏感に反応するオケもあるだろう。したがって、今後予定されている世界各地の演奏で、ずいぶんと性格が変わってくる可能性がある。そういう意味では、今後の再演で《交響曲第2番》がどのように成長していくのか、大いに期待したい。
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