久石譲「Music Future Vol.7」初日を聴いて

久石譲「Music Future Vol.7」初日を聴いて

久石譲が現代の音楽(ゲンダイオンガクではない)を紹介する目的で毎年秋に開催している演奏会シリーズの第7回目。ジョン・アダムズの「Gnarly Buttons(こぶだらけのボタン)」、ニコ・ミューリーの「Balance Problems」、ブライス・デスナー「Skrik Trio」、それに久石自身の2曲。
  • 前島秀国
    2020.11.20
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いささか逆説的な言い方になるが、とてもオーソドックスな演奏会だった。いまアメリカで最も注目すべき作曲家の名前を挙げるとして、その名前のリストにニコ・ミューリーとブライス・デスナーが含まれていなかったら、そのリストの作成者に現代の音楽を語る資格は全くない。久石は、「Music Future」を立ち上げた当初からこの2人に注目し、おそらく日本で初めて彼らの音楽を本格的に紹介し、コロナ禍さえなければ、今回の第7回でミューリー本人を日本に迎える予定だった(ミューリーは来年改めて招聘する予定)。そういう意味で、久石の「Music Future」はごく当たり前のことを当たり前にやっているだけなのである。オーソドックスと書いたのはそういう意味だ。そして、ここが重要なのだが、久石が彼らの作品を紹介し続けているのは、音楽的に高い価値を有しているのみならず、聴いていて純粋に楽しいからである。聴衆が顔をしかめながら、見知らぬ新作の陳列に2時間耐えるコンサートとは違うのだ。

久石の作品以外の曲から書いていくと、まずジョン・アダムズがクラリネットと小オーケストラのために書いた協奏曲「こぶだらけのボタン」。20年以上前にCDが出た時、実はライナーノーツを書いているのだが、その時はずいぶんと変わった、そしてノンビリした曲だと感じた。その理由のひとつは、第2楽章「ホーダウン」で牛の鳴き声のサンプリングがシンセサイザーによって演奏されるからだが、今回の演奏は長閑な要素は微塵も感じさせず、とても鋭角的でカッティング・エッジな解釈になっていた。20年前に聴いた曲とは、とても同じ作品とは思えない。久石のスコアの読みの鋭さもあるが、作品自体もある程度の年月を経た結果、生き物のように成長しているのだということを肌で実感した。そして、特筆すべきはクラリネットのマルコス・ペレス・ミランダの体当たり的なソロ。技巧の素晴らしさはもちろんのこと、これほどエキサイティングな情熱を感じさせるクラリネット・ソロは、ついぞお目にかかったことがない。とんでもない才能である。別の言い方をすれば、彼の才能と技量をフルに活かしたクラリネットの現代の作品――いわゆるスタンダードなクラシック作品だと楽器の性格上、どうしてもほのぼのとした曲が多くなってしまう――を、もっと聴きたくなった。これだけでも、今回の演奏会は大成功というべきだ。

ニコ・ミューリーがフルート、クラリネット、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ギターという変わったアンサンブル(指揮者なし)のために書いた「Balance Problems」は、曲名通り、編成上のバランスの問題をいかに音楽上のメリットに変えていくか、という実験を試みた作品である。1音1音を丁寧に扱っていくミューリーの作風がはっきりと現れ、かつ、この編成でなければ聴けない音色の愉楽を、時にはデリケートに、時にはヴィヴィッドに表現していた。

ブライス・デスナーが弦楽三重奏(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)のために書いた「Skrik Trio」は、実はちょっとした個人的な思い出がある。3年前にスティーヴ・ライヒが来日した時、ライヒと2夜連続で公開対談するという役目を仰せつかったのだが、その時に若い世代の作曲家についてライヒに訊ねたところ、ちょうどミューリーやデスナーの新作を紹介する演奏会をカーネギーホールで企画しているところだ、という答えが返ってきた。いったい、どういう作品が出てくるのだろうと期待していたら、その新作のひとつが「Skrik Trio」だった。つまり、ライヒと話してから3年後に、ようやく僕はその答えを「Music Future」Vol.7で見つけたという次第である。デスナー初期の出世作として知られる弦楽四重奏のための「Aheym」(これは「Music Future」Vol.2で日本初演している)と比較すると、デスナーの弦楽器の書法は格段の進化を遂げ、セクションによっては後期ロマン派風の濃密な響きさえ聴こえてくる。しかし、それ以上に興味深かったのは、ユダヤ系の血を引くデスナー自身のルーツが、ユダヤ民謡あるいは旋法の引用のような形ではっきりと表現されていた点だ(「Aheym」にも多少現れていたが)。これには正直、驚いた。ミニマリズムの影響の下に書かれているにも関わらず、全体の印象としては、ショスタコーヴィチの「ピアノ三重奏曲第2番」とか「アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲」に近いものを感じた。

あと、久石自身の作品が2曲演奏されたが、これから久石のミニマル作品について長めの文章を書かねばならず、その文章の内容とも多少絡んでくるので、詳しい批評はこの場で控えたい。ただし、ごく簡単に触れておくと、プログラム最初に演奏された「2 Pieces 2020 for Strage Ensemble」は、ひとつのモティーフ(音形)をいかにミニマル的に増殖し、発展させていくかという久石のミニマル語法をわかりやすく示した作品のひとつだと思う。そしてプログラム最後に演奏された「Variation 14 for MFB」は、コロナ禍で世界初演がのびのびになっている最新作「交響曲第2番」の第2楽章を、西江辰郎がコンサートマスターを務めた当夜の演奏団体Music Future Bandのために特別にリコンポーズしてお披露目した作品である。この第2楽章を聴いただけで、「交響曲第2番」が近年の久石のミニマル作品で最も重要な、かつ世界的に大きなインパクトをもたらす作品だということは確信できた。早く全曲が聴いてみたい。

このように「Music Future Vol.7」はとても楽しい演奏会だったので、今晩、もう一度聴きにいくことにした。社会情勢に逆らいながら外来オケの来日を無理やり強行しなくても、大いなる音楽的喜びを与えてくるコンサートは、いまの日本の状況下でもしっかりと作られている。

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