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いま、世界で最もホットなチェロ奏者ヒドゥル・グドナドッティル

いま、世界で最もホットなチェロ奏者ヒドゥル・グドナドッティル

トッド・フィリップス監督『ジョーカー』のスコアを手掛けてゴールデン・グローブ作曲賞を受賞し、昨年ドイツ・グラモフォン・レーベルと専属契約を結んだアイスランド出身の女性チェロ奏者/作曲家/歌手ヒドゥル・グドナドッティルに関する、ささやかなイントロダクション。
  • 前島秀国
    2020.01.06
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 先ほど開催された第77回ゴールデン・グローブ賞授賞式において、トッド・フィリップス監督『ジョーカー』の音楽を手掛けたヒドゥル・グドナドッティルが、大方の予想通り作曲賞を受賞した(他に『ジョーカー』からはホアキン・フェニックスがドラマ部門の主演男優賞を受賞した)。舌を噛みそうな名前を持つ彼女が何者か、日本の多くのクラシック・リスナーはまだご存じないかもしれないが、いわゆるポスト・クラシカル/ネオ・クラシカルのジャンルにおいては、ここ数年で急速に注目を集めているチェロ奏者/作曲家である。

 1982年レイキャビークに生まれたヒドゥル(毎回しつこく書くが、アイスランドには姓の概念がない。グドナドッティルは姓ではなく、「グドナの娘」の意味)はレイキャビーク音楽院、アイスランド芸術アカデミー、ベルリン芸術大学で学んだ後、アイスランドのいくつかのバンドでチェロとヴォーカルを担当。同じアイスランド出身の作曲家ヨハン・ヨハンソンとは頻繁にコラボレーションを重ね、多くの彼の作品でチェロ・パートを演奏しているほか、いくつかの映画音楽においては共同作曲者として名を連ねている。

 とまあ、ここまでがいわゆる普通のプロフィールの紹介だが、ヒドゥルのユニークな音楽性と芸術性を前にすれば、はっきり言ってそんなことはどうでもいい。僕が『ジョーカー』に感心したのは、彼女がチェロでなければ出来ない映画音楽を書き、しかもその根底にあるものが、クラシックの伝統を踏まえていなければ生まれてこない発想だったことである。

 『ジョーカー』は、主人公の道化師アーサー・フラックが生まれつきの病、恵まれない家庭環境、経済的に悲惨な社会環境など、さまざまな要因によって次第に精神が蝕まれ、ついには悪の権化へと変貌していく物語だが、ヒドゥルはその主人公の内面を、ほぼチェロ1本だけで表現するという大胆な作曲を試みている。チェロ音楽の歴史、特に無伴奏作品の歴史を紐解いてみれば明らかなように、この楽器は個人が抱える孤独や疎外感、悩みや苦しみを表現するのにうってつけだ。ヒドゥルはそうした伝統を踏まえた上で、主人公とチェロを同化させているのである。きわめて論理的だし、また説得力ある手法だ。

 しかも彼女が弾いているのは、普通のチェロではない。予備知識なく最初に聴いた時、特殊調弦による演奏か、さもなくばヴィオールのような古楽器に電子変調を加えたものかと思ったが、『ジョーカー』でヒドゥルが弾いているのは、彼女自身も開発に協力したハルドロフォン(Halldorophon)という一種のエレクトリック・チェロで、通常のチェロと同じ4本の演奏弦と、ヴィオラ・ダモーレなどに見られる共鳴弦を4本備えている。共鳴弦は電子的に制御が可能で、それにより通常のアコースティック・チェロでは実現不可能なループ演奏やドローンの演奏を可能にしている。

 このMIDI楽器と古楽器のハイブリッドのようなハルドロフォンに、ヒドゥルは主人公の言葉にならないモノローグ、ひきつった笑いの中に苦しみを抱えた異形(いぎょう)の声を託している。それだけでも圧倒的なのだが、『ジョーカー』の音楽の真の驚きは、ヒドゥルのハルドロフォンに合わせ、主人公が実際にダンスを踊ることだ。

 いくつかの海外インタビューによれば、ヒドゥルは撮影前に主人公のテーマを作曲し、そのテーマを撮影現場で流しながら、ホアキン・フェニックスが主人公を演じたという。道化がダンスを踊るのはキャラクターの設定上当然としても、それがチェロの音楽をバックにして踊られると聞いて、読者は何を連想するだろうか? そう、バッハが《無伴奏バッハ組曲》で用いた古典舞曲だ。つまり、主人公がチェロの“舞曲”に合わせて踊るという発想は、例えば《無伴奏バッハ組曲》を用いたコンテンポラリー・ダンスの振付と本質的には変わらない。それをハリウッドのエンタテイメントのど真ん中で実現してしまうとは、正直予想もしていなかった。バッハのことを知らなくても、『ジョーカー』のダンスシーンは驚嘆すべきレベルに仕上がっている。しかし、その発想の根底にバッハが流れていることを知ったら、おそらく映画そのものの見方が変わるだろう。だから僕は、今回のヒドゥルのスコアを単なる映画音楽として聴くのではなく、コンテンポラリー・アートの領域に踏み込んだ一種の芸術音楽として捉えるべきではないかと考えている。

 ゴールデングローブ賞の審査員(ハリウッド外国人記者クラブ)がそこまで評価したかどうかわからないが、いずれにせよヒドゥル・グドナドッティルは現在最もホットなチェロ奏者として、今後ますます注目を集めるはずだ。『ジョーカー』公開直後に専属契約を結んだドイツ・グラモフォンからは、遅かれ早かれソロ・アルバムがリリースされると思うので、その時がチェロ奏者/作曲家としての彼女の正念場になるだろう。
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