アレクサンドル・デスプラの新作オペラ『サイレンス』(その2)

アレクサンドル・デスプラの新作オペラ『サイレンス』(その2)

1月25日、神奈川県立音楽堂で上演されたアレクサンドル・デスプラ作曲・指揮、ソルレイ演出・映像の共作オペラ『サイレンス』のレビューの続き。
  • 前島秀国
    2020.01.26
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オペラの構成を見ると、全体はプロローグつきの全3場とみなすことが出来る。プロローグは、老作家の大宮明房が無言になった経緯をナレーター(ローラン・ストッカー)が紹介する導入。第1場は、大宮を師と仰ぐ若い作家・三田(バリトンのロマン・ボックラー)が鎌倉から逗子の大宮邸へ向かうタクシーの車中の場面(ナレーターがタクシー運転手役として、三田の相手をする)。全体の半分近くを占める第2場は、大宮邸の場面。大宮の介護をしている娘の富子(ソプラノのジュディス・ファー)と三田のやりとりが中心となり、“書かれなかった言葉”あるいは”発話されなかった言葉”をめぐる哲学的な会話が繰り広げられる。最後の第3場は三田が再びタクシーに乗り、逗子から鎌倉に戻る場面だが、この場面の最後で、幽霊がタクシーの中に現れる。その幽霊出現の音楽が全曲最大のクライマックスであり、ここでデスプラは日本の怪談の音楽のエッセンスを凝縮したような、驚くべき祭り囃子をアンサンブル(ルクセンブルクの団体アンサンブル・ルシリンを舞台下手からデスプラが指揮)によって演奏させる。方法論的には映画『犬ヶ島』の和太鼓の音楽に近いと言えるかもしれないが、僕自身はむしろ武満徹の映画音楽の傑作『怪談』にオマージュを捧げた音楽ではないかと感じた。いずれにせよ、映画音楽作曲家としてのデスプラの側面が最も強く現れた部分だと言えるだろう。

これに対し、いわゆるオペラ的なクライマックスは第2場の終わり近く、酒に酔った三田がなんとか大宮に言葉を使わせようと、必死に説得を試みる部分の歌に聴くことが出来る。身の回りの世話をしてくれる富子に対し、せめて水の「ミ」や茶の「チ」くらい指でなぞってもいいじゃないか、「ありがとう(仏語歌詞による上演なのでメルシー)」の「メ」くらいなぞってもいいじゃないか、そうやって感謝の気持ちを文字にすれば、いままで書いたどんな名文よりも心のこもった言葉になるじゃないかと、三田はなんとか大宮から言葉を引き出そうとする。この三田の歌に込められた情熱、エモーションは、観客すべてが共感し得る純粋かつ真正な心の叫びである。

にも関わらず、三田は一言も発することなく、無言を貫く。その瞬間、無言つまり沈黙こそが、実は最も雄弁な言葉なのだと三田はようやく悟る。そして、富子と夕食のテーブルについた彼は、無言のまま食事をとるのだが、当然のことながらそこで音楽は完全に鳴り止み、舞台は完全な沈黙に包まれることで、文字通りの無言劇となる。ここで僕は泣いた。このオペラが「無言」つまり「サイレンス」を主題にした理由が、はっきり示されていたからである。語られぬ言葉、あるいは演奏されぬ音楽こそが、実は最も意味深く、感情的で、美しい――。

僕は予め川端の原作を読んでから見たが、『無言』を収めた文庫本は現在絶版のため、図書館に行くか中古本を探さない限り、原作を読むことは現時点で不可能である。とはいえ、最初に書いたようにリブレットはほぼそのまま川端の原作に沿って作られているから、もしこのオペラが観念的だと感じたら、それは川端にも原因の一端がある。おそらく、デスプラとソルレイもそのことは多少懸念していたのだろう。だから今回の上演では、舞台上方に設置されたスクリーン(シネマスコープサイズ!)に映し出した映像(『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』などのフランス映画を手掛けた撮影監督・永田鉄男をカメラマンに起用し、ソルレイが演出したフッテージ)で老作家の心象や記憶、それに幽霊を映し出すことで、物語に具体性を与えるという手法を採っていた。そういう意味では、この映像が今回のオペラ化に際して加えられた最大の“脚色”と言ってもいいかもしれない。

実は本番終了後、デスプラとソルレイに取材したのだが、諸般の事情で詳細はまだ明らかに出来ない。1ヶ月以内には読めるようになると思うので、しばしお待ちいただければ幸いである。
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