ヴァイオリン奏者マリ・サムエルセンの有料無観客演奏を見て

ヴァイオリン奏者マリ・サムエルセンの有料無観客演奏を見て

5月29日(日本時間30日午前3時)、ノルウェーのヴァイオリン奏者マリ・サムエルセンが有料チケット制による無観客ライヴ「Global Concert Hall: Mari Live」を開催した。配信は、ドイツを拠点とするクラシック音楽のストリーミングサービスIDAGIO(アイダージョ)のプラットフォームを使用。
  • 前島秀国
    2020.06.01
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先週はじめ、友人でもあるマリ・サムエルセンからダイレクトメッセージが届いた。「今週末に無観客ライヴのストリーミングをやるんだけど、日本のファンにも見てもらいたいから、情報をシェアしてもらえないだろうか?」。シェアすること自体は簡単だが、IDAGIOは現時点で日本でのサービスを開始していない。そもそも日本からサイトにアクセスすると、地域制限のメッセージが表示される(日本、中国、香港以外の約190ヶ国では利用できる)。単純にシェアしても、かえって混乱を招くだけだ。そこで「IDAGIOのスタッフに、その無観客ライヴだけでも日本から視聴可能になるか、問い合わせてみてくれないか? 可能になれば、もちろん喜んでシェアする」と返信したら、どうも本当に動いてくれたみたいで、日本からもオンラインチケットが購入出来るようになった。演奏時間は約50分、それに演奏後の質疑応答なども含めて9.99ユーロ、日本円で約1212円(クレジットカードとPaypalが使用可)。世界的に見て、ごく標準的な価格設定だと思う。ちなみにチケット売上は、20%の手数料を除いた残りの80%がそのままアーティストの収益になると明記されていた。チケット購入者ならば、無観客ライヴ開催後24時間は何度でも演奏録画を再生出来るというのも良心的である。

昨年3月、マックス・リヒター作曲《メモリーハウス》日本初演と、お台場チームラボ ボーダーレスで開催されたYellow Lounge出演で初来日を果たしたマリは、多くのヴァイオリニストのように既存の名曲を弾くのではなく、ミニマル・ミュージック以後の新しい音楽の紹介に活動の主眼を置き、場合によっては作曲家に新作を委嘱するなどして、レパートリーを開拓し続けている特異なヴァイオリニストである(一例を挙げると、映画音楽作曲家ジェームズ・ホーナーが初めてクラシックの作曲に挑んだ二重協奏曲《パ・ド・ドゥ》は、マリがホーナーに委嘱を直談判して生まれた作品)。当然のことながら、今回の無観客ライヴでもありきたりのプログラムを演奏しなかった。

オスロの録音スタジオで彼女が演奏したのは、バッハに影響を与えたとされるドイツ・バロックの作曲家ヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフの《ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ第3番》~「鐘の模倣」、イタリアの作曲家ルドヴィコ・エイナウディの《I Giorni》、メニューインがフィリップ・グラスに作曲を委嘱した《Echorus》、エイナウディ《Una Mattina》(ヴァイオリン版世界初演。ライヴ開催日にマリはデジタルシングルをリリースした)、グラス《Metamorphosis No.2》、ブライアン・イーノ《By This River》、そしてスウェーデンの映画音楽作曲家ウノ・ヘルメルソン(とマリは発音していた)の《Sounds of Forgiveness》(今回のための新曲)と《Timelapse》。マリの独奏パートに加え、弦五部ひとりずつとピアニストが伴奏を担当していたが、いずれもフリーのミュージシャンということであった。

一見すると、彼女が曲間のトークで語っていたように「好きな曲があれば、それがヴァイオリンのために書かれたものでなくても演奏する」プログラムのように思われるかもしれないが、実のところ、マリの選曲はバロックとミニマリズムの関連という“裏テーマ”に裏打ちされている。作曲年代を知らずに、ヴァイオリンが32分音符の反復音形を延々と弾き続けるヴェストホフの曲を聴けば、ペルトか何かのミニマル作品と錯覚するに違いない。あるいは逆に、エイナウディの《I Giorni》に聴かれる、ヴィヴァルディかと見紛うような地中海的明るさに溢れた伸びやかな旋律は、間違いなくこの作曲家のルーツがイタリア・バロックに根ざしているという事実をはっきり示している(エイナウディ本人も、筆者にそのように語ったことがある)。そして、マリが最も得意とするグラスの音楽。80年代以前からグラスを聴き続けているミニマル・ミュージックの原理主義者ならば、マリのようにカンタービレで歌うアプローチに思わず卒倒するだろう。マリはグラスの音楽を修行僧的な禁欲から解き放ち、そこに純粋な音楽の喜びと美しさを与えることに成功している。こういう演奏は、少なくとも10年前までは全く出てこなかった。

以上の楽曲に加え、アンコールも演奏されたが、チケット購入者に予めアンケートをとってイーノの《Emerald and Stone》かベートーヴェンの《月光》ヴァイオリン版のどちらかを選ばせ、その結果をアンコール直前に演奏者たち本人に伝えるという試みも、ライブ配信というフォーマットを活かした試みで面白いと思った。購入者の過半数が選んだのは《月光》(結果的に、これが世界初演となった)。「予想外の結果だった」と驚きの表情を見せながら弾き始める彼女の姿が印象的だった。

コロナ禍により、観客を入れた実演の可能性が見えにくい中、マリのように有料制の無観客公演を開催するアーティストは、今後どんどん増えてくるだろう(日本でもその動きが始まっている)。その際、ガランとしたホールの演奏をスマホで配信するような、どちらかという安易な作りは、市場競争の原理に従って淘汰されていくと思う。スマホのアプリないしはパソコンのブラウザーなどを通じて配信する以上、映像的な工夫がないものは観客の関心を惹くことが出来ないからだ。今回の「Global Concert Hall: Mari Live」の場合は、スタジオ内にスモークを焚いて照明を入れ、手持ちカメラの一種であるステディカムを使って演奏者の息吹をリアルに伝えるような映像上の工夫が随所に見られた(映像論の話になるので詳しくは触れないが、ズームで被写体に寄るのと、ステディカムで被写体に寄るのとでは、画の迫力が全然違う)。無観客公演の配信は必ずしも実演の完璧な代替とならないが、それなりの良さもあるし、実演では難しい試みも可能になる。「絶対に生演奏でなければいやだ、それまで無観客公演の鑑賞は控える」と頑なに否定するリスナーは、例えば会場入場時の検温にどのくらいの時間と人手が掛かるのか、あるいは休憩時の化粧室に並ぶ聴衆の密対策はどうするのか、といった問題点を想像していただきたい。このままではライヴが開催できず、音楽文化が死に絶えてしまうと泣き言を言っているだけではなく、どうすればアーティストを支援し、音楽文化そのものを支援していくことが出来るのか、現実に即して考えるべき時期が来ていると思う。そして、そのためのツールとプラットフォームは、すでにいくつも利用可能な状態になっている。
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