ホール主催のコンサートの意義とは?

ホール主催のコンサートの意義とは?

12月11日すみだトリフォニーホール、ヴィキングル・オラフソンが弾き振りで新日本フィルと演奏したモーツァルト《ピアノ協奏曲第24番》で感じたこと。
  • 前島秀国
    2019.12.14
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こんな至福の時間は、最近のコンサートのモーツァルトの演奏では久しく体験していなかったものだ。すべての音符が有機的に結びつき、ピアノであろうが木管であろうが、どんな短いフレーズのソロも聴く者の耳を捉えて離さない。しかも、アンコールは《ピアノ協奏曲第23番》の第2楽章。演奏が終わった後、ヴィキングルのモーツァルトがもっと聴きたい!と感じた聴衆は、決して少なかったはずだ。だからといって、ヴィキングルはホイホイと要望に答えるようなアーティストではない。これまで何度も「何かの全集やチクルスをやることに興味はない」と公言している人だから。
それだけに、彼の弾き振りでモーツァルトの協奏曲が1と1/3曲聴けたのは、実に幸運だったというべきだろう。アンコール演奏前の挨拶で、ヴィキングルは「本来、モーツァルトは偉大な指揮者が振るべき音楽だけど」と謙遜していたが、今回のモーツァルトの名演は彼の要望に見事に応えた新日本フィルの音楽性によるところも大きい。簡単に言えば、オケがヴィキングルの音に惚れ、ヴィキングル色に染まったのである。
前々日の月曜日に行われたリハーサルでは、最初に全曲を通した後、ヴィキングルはかなり細かい指示を出しながら、各楽章の音楽をオケと一緒に綿密に作り上げていった。彼の目指す音楽の方向性は、彼自身の柔らかく透き通ったタッチのピアノが示しているから、オケのメンバーもその方向性が即座に理解できる。その結果、オケが彼のピアノの延長のように聴こえてくるようになったわけである。
実はこれと同じような音楽作りを、今年3月2日のダニエル・ホープのヴィヴァルディ《四季》(とマックス・リヒターのリコンポーズ版)の弾き振りでも目撃した。手垢にまみれた通俗名曲と思われがちな《四季》を、ダニエルは新日本フィルと共にフレージングからアーティキュレーションからすべて見直し、弦楽セクションがダニエルのレプリカントだけで成り立っているような「分身の術」状態にした上で、《四季》をまだ楽譜のインクが乾ききっていないような生々しい音楽に作り上げていった。指揮者を媒介にしたリハーサルでは、なかなかこういう音楽作りは出来ない。
こう書くと「指揮者不要論」みたいな話になってしまうが、もちろんすべての時代の音楽について同じ方法論が当てはまるわけではない。ただ、ヴィキングルやダニエルのような成功例を実際に目の当たりにすると、世界をリードするソリストたちと直接音楽を作り上げていく機会がもっと与えらればいいのに、とも思う。
今回の演奏会はオケの主催ではなく、トリフォニーホールの主催である。そのため、オケの定期演奏会と異なり、プログラムの前半または後半だけにオケを使うという、柔軟なプログラムを組むことが可能となっている(これを彼らは「すみだ方式」と呼んでいる)。通常、オケの定期以外の演奏会では、リハ会場が本番会場と異なる場合がほとんどだが、ホール主催の場合、リハも本番と同じ環境で行なうことが出来るので、たとえリハの時間が限られていても、演奏者たちはゆとりを持ちながら音楽作りに専念する出来ることが出来る。しかも今回のヴィキングルとの共演の場合、オケは協奏曲1曲に集中すればいいわけで、これほど贅沢な音楽づくりは、もはや定期すら凌駕している。
我々聴衆は常に「名演」を求めて演奏会場に足を運んでいるわけだが、そうした「名演」は演奏者の技量もさることながら、物理的・時間的・経済的・精神的な裏打ちがあって初めて可能なのだという事実を、今回の演奏でまざまざと思い知らされた。今後、こうした野心的な試みが継続されていくのか、それはわからないけれど。
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