語るに落ちる [Bagatelle]
ふと思ったこと。
とくに作品が独立している場合はそうだけれど、人はよく、作品や演奏を、自分や大勢の聴衆と切り離して語ろうとする。それだけがフェアな態度であると擬態するかのように。
しかし、それでは語れないコンサートのすがたというものがある。音楽は、個人的なものでも、最後まで非個人的なものでもない。あるいは、そのどちらでもある。であるならば、そのどちらでもいいはずなのだ。なのに、コンサートを評するほとんどの言説が、演奏評ではあったとしても、演奏会評としての社会的な広がりを端から閉め出しているようにみえる。ぼくの書くものも、たぶんそうだ。ずっとそのように思ってきたのだけれど、やってみるとこれがなかなかたいへんで。場面や機会のなかではかなり難しく、絞って言うしかないのも実情ではある。
演奏会はもちろん、個人の事柄だけで捉えられるようなものではないが、一部分だけを切り出して理解ができあがるようなものでも、もちろんない。もっといろいろなみかたや言いかたがあっていい。そうして、さまざまなことを包み込むようにコンサートを語ることができたらいいのに、といつも思う。なかなか叶えられない、欲張りなことだとしても。
しかし、それでは語れないコンサートのすがたというものがある。音楽は、個人的なものでも、最後まで非個人的なものでもない。あるいは、そのどちらでもある。であるならば、そのどちらでもいいはずなのだ。なのに、コンサートを評するほとんどの言説が、演奏評ではあったとしても、演奏会評としての社会的な広がりを端から閉め出しているようにみえる。ぼくの書くものも、たぶんそうだ。ずっとそのように思ってきたのだけれど、やってみるとこれがなかなかたいへんで。場面や機会のなかではかなり難しく、絞って言うしかないのも実情ではある。
演奏会はもちろん、個人の事柄だけで捉えられるようなものではないが、一部分だけを切り出して理解ができあがるようなものでも、もちろんない。もっといろいろなみかたや言いかたがあっていい。そうして、さまざまなことを包み込むようにコンサートを語ることができたらいいのに、といつも思う。なかなか叶えられない、欲張りなことだとしても。
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