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シューベルトは六弦ギターで夢を見るか? -鈴木大介『シューベルトを讃えて』を聴く

シューベルトは六弦ギターで夢を見るか? -鈴木大介『シューベルトを讃えて』を聴く

CD◎鈴木大介(ギター)『シューベルトを讃えて』(ART INFINI)
  • 青澤隆明
    2020.04.14
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 きのうは雨で、きょうは晴れで、どちらにしても、ぼくの部屋ではシューベルトが流れている。ふつうならピアノだが、この『楽興の時』はギターで語られる。いや、語られる、というのでは言葉がたりなくて、もっと大きななにかが生み出されている。そのハーモニーの広がりはより親しく、音の減衰が湛える繊細な生命感によって、さらに幻想的に響くような気がする。和音の連なりが一歩一歩確かめるように、入念に歩まれていく感じは、ギターという楽器の生理的かつ機能的な特性ゆえだろう。

 ここに選ばれたアンダンティーノの第2曲ではとくに、クラシック・ギターという楽器のもつ親近感と温度と、密やかながら夢幻的な色彩感が自然と活きてくる。シチリアーノふうのリズムも心地よく揺れる。これだけ濃やかに歌い込もうとすると、ピアノならば少々過度に聞こえたり、もっとたんたんと行くほうがかえって訴える力は強いかもしれないが、こうしてギターでじっくりと奏でられると全体が手の内に収まって、自然な歌いかけとなる。

 アレグロ・モデラートの第3曲に進むと、同じギターの響きでも、光の射しかたがまったく違う。こちらは斜光の感じが強くあって、光の角度は調性の違いと演奏表現の幅からもきている。民謡ふうの曲調に関しても、ギターだと無理なく民俗的な情趣も高められる。 

 鈴木大介の手によるギター演奏である。シューベルトの旋律的な息づかいだけでなく、和声的な広がりに幻想的な沈潜がみられるのが素晴らしい。『楽興の時』からはギターの響きに自然だと感じるという、この2曲だけを採り上げている。『シューベルトを讃えて』という新しいアルバムの幕開けだ。

 ピアノ曲と歌曲の編曲のあいだに置かれるかたちで、マヌエル・ポンセが次に登場する。没後100周年を迎えたシューベルトを讃えて、彼に捧げた「ソナタ・ロマンティカ」になると、ギターの伸びやかな翼はさらに大きく広げられていく。

 シューベルトの6つのリートをヨハン・カスパル・メルツのギター独奏版で弾く奏者は、感情的な機微とともに曲の情景を巧みに描き出している。映画音楽の編曲演奏に卓抜な手腕をみせる鈴木大介だが、情景と物語を拓く想像力はシューベルトのリートでも確かだ。原曲ではピアニストが背景のように画布に広げていく音調をも、自らの手もとに引き寄せて、内密な表現に温かく纏めている。

 おしまいは、ヨーゼフ・ランツの「2つのロンディーノ」。シューベルトをジーモン・ゼヒターの対位法の教室へと連れていった友人の書いたギター曲が、ここで日向のように響く。第2曲ハ長調は、途中「運命」に扉を叩かれつつも、麗らかな結びへといたる。

 シューベルトの晩年から、100年後の未来を夢み、彼の同時代も呼び寄せながら、ギターのための編曲とオリジナル曲が交互に織りなされる運びとなる。その違いを原曲の楽器の差異だけに帰することができないのは、ピアノの書法にも澱みとはいえないまでも独特のタッチがあるシューベルトだから。フランツ・シューベルトの手がギター弾きの手、そもそもピアニストの手であったかどうかはさておき、マヌエル・ポンセの手は素晴らしいギタリストの手である。ヨハン・カスパル・メルツと鈴木大介の手もまた。

 当時のオーストリアではギターが愛された、シューベルトはギターをもっていた。そうしたシューベルトとギターの関係については、奏者自身がていねいなライナーノーツに記しているが、このアルバムに収められたシューベルトの音楽が、ギター曲として奥ゆかしい魅力を湛えていることが第一だ。シューベルトがギターを愛したかどうかの議論とべつに、ギターがシューベルトを愛するか、ということだってある。そして、ギタリストがシューベルトを愛する、という明らかな証拠のひとつはここにある。

 降っても晴れても、ここでのシューベルトの音楽は聴き手の心に、ぴったりと馴染んでくる。それは同時に、どこまでも内密で、壮大な幻想世界である。クラシック・ギターの懐と、この楽器の響きの空間性そのもののように。
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