グルダの飛行機 - フリードリヒ・グルダ 生誕90年・没後20年

グルダの飛行機 - フリードリヒ・グルダ 生誕90年・没後20年

フリードリヒ・グルダのリサイタルの上空を飛んでいたジェット機のこと。黒田恭一さんがぼくに教えてくれた。 CD◎ “GULDA Récital Montpellier, 1993” Friedrich Gulda (pf) (Euterp Montpellier/Universal Music)
  • 青澤隆明
    2020.04.11
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 少しまえにウィリアム・カペルのラジオ放送用の録音について書いたとき、思い出していたのがフリードリヒ・グルダのコンサートで滑空した飛行機のことだった。モンペリエの真夏のリサイタルでの一幕である。

 「飛行機の音がするんだよ」。そう言って、グルダのモンペリエ・リサイタルのことを教えてくれたのは、黒田恭一さんだった。「グルダが好きなら、聴くといいよ」。
 
 誰にしても好きな音楽のことを話すときの表情はいいものだけれど、黒田さんの熱っぽい口調は特別だった。いたずらっ子が、なにか大切な秘密を明かすときのように、とても大事に話してくれるのだ。話していても、文章でも、そうだった。そして、グルダは黒田さんの心のなかでも特別な場所にいたはずで、ぼくにはふたりの戦いはまるで同志のように血が通ったものにみえた。

 黒田さんの熱が乗りうつったように、ぼくは早速CDを買った。けれど、きっとそこにはなにかの魔法があるような気がして、すぐに開封しなかった。とっておきのときに聴きたいと思ったのだ。そのようにしてずっと心に置きながら、あっというまに月日が経ってしまった。ぼくがそのライヴ・レコーディングを鳴らしたのは、黒田さんが亡くなって10年目の夏の日だった。それは、昨夏のことだから、15年くらい、ずっと棚にしまわれていたことになる。

 そのコンサートは、ドビュッシーではじまった。「音と香りは夕べの大気の中に漂う」なんて、いかにも気の利いた挨拶だ。それから、もそもそっと、曲名のアナウンスがあった。その聴衆への語りかけはグルダの声で、拍手もなくベートーヴェンのソナタop.110が続いていく。グルダはピアノを弾きながら、あたまから鼻歌を歌っている。とても気持ちのよい夕べだ。

 飛行機はけっこう早くに飛んだ。ソナタop.110が薄い鼻歌まじりに歌い出されて、そこからピアノがいよいよ飛び立とうとするときに。飛行機は真夏の空のなかをやってきて、すぐに飛び去って行った。グルダのベートーヴェンは、そのさきをのびやかに歩み続けた。ジェット機の姿はみえなくなっても、曲も機体もまっすぐに進んでいく。黒田さんが微笑んでいるのがわかった。

 このリサイタルは1993年 7月31日の出来事で、ということは、グルダが東京にやってきたのはその秋だった。3つのコンサートがひらかれた。最後の日に、自らのパラダイス・バンドも率いて楽しそうに演奏していたすがたも、ぼくには忘れられない。バンドでのコンサートに関して言えば、実のところ、そのときの音楽のなかみよりも。

 それがグルダの最後の来日となった。フリードリヒ・グルダが亡くなって、今年で20周年になる。大好きなモーツァルトの誕生日に死にたい、と言っていたときくが冗談ではなく、ほんとうにその日に、心臓発作で亡くなってしまった。69歳で。つまり、2020年は生まれてから90周年にもなる。

 グルダの飛行機はいったい、どこに飛んで行ったのだろう。 モーツァルトのいるところ? 
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