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再会まで (後) -くるりの『thaw』をめぐる遁走曲

再会まで (後) -くるりの『thaw』をめぐる遁走曲

ステイホームのあいだ。くるりの『thaw』を聴いていた。つづき。後半 。◎CD くるり『thaw』(Victor)
  • 青澤隆明
    2020.06.30
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 もうすぐ6月も終わってしまうので、4月からずっと書きたかったことを、きょうという土のなかに埋めておこう、と思った。穴を掘って、でも上から土を重たく被せたりはしないで。

 それは、くるりの『thaw』というアルバムのことだ。タイトルは雪解け、解氷、つまり解凍という意味だろうが、それは回答でもある。解答なんてすぐにみつかるものではないから、開問という投げかけだけがあるのかもしれない。
 と書いてくると、クラシック音楽の話ではないではないか、と思われる向きももしかしてあるかもしれないが、いまという時代に生きている以上、関係ないことなんてなにもないのである。

 くるりの新譜の背景をざっと伝聞で記しておくと、新型コロナウイルス感染症拡大の状況を受け、ライヴ・ツアーの実施が危ぶまれるなか、彼らは英断して、作品づくりへとフォーカスを向けた。新作を創る、という方法もあっただろうが、それにはしかるべき時間を要する。彼らはまず、この時期、作品を世に出すことを重視した。
 ツアー・リハーサルからスタジオ・ワークへと切り替えるや、彼らは速やかにアルバムを仕上げて、決断から40日ほどのうちに配信でのリリースに漕ぎつけた。これが4月15日のことで、CDのかたちでのリリースが5月27日。ステイホームが唱えられた期間中にきちんと実現された。それだけでも天晴れだが、ぼくが頼もしいと思ったのは、いろいろとあっただろう事情のなかで、くるりとそのチームがやはり作品を創り、聴き手に届けることに情熱と力を傾注したことだ。
 
 このアルバムは性格からいえば、タイトルが象徴するとおり、いわゆる「未発表作品集」になる。収録楽曲も音源も新しいものではない。その条件をよいほうにとれば、もっとずっと長い歳月をドキュメントすることも可能だ。 
 くるりはバンド結成が1996年だが、ここには初期にあたる1998年の音源から、2018年にテレビ番組のテーマ曲として発表された「へウレーカ!」までの、20年に渡る15曲が懐広く結集している。アルバムごとに多様な音楽性を試みてきたバンドだし、メンバーも編成も、ゲスト・ミュージシャンもエンジニアも、録音場所もまたいろいろである。
 まさに旅の記録にふさわしく、曲それぞれに固有の空気、雰囲気や感情を色濃く宿している。それだけに、さまざまな匂いや触感が生々しく伝わってくる。それでいてばらばらではなく、確固たる芯と存在感があるアルバムだし、どこかしら正直で、やけに身近に感じられる。闇鍋を掻きまわしていたら、やっぱり鍋ごとそのままくるりだった、というような。

 ひとつのアルバムとして、改めて現時点に立って、旅の流れをまとめる全体構成の手腕は見事だし、曲ごとの仕上げもていねいだ。そのときどきのアイディアを勢いよくファナティックに追い求めた青年たちの、鮮やかな冒険から冒険へのドキュメントという趣も色濃く、アルバム単位のサウンドづくりや創作上のコンセプトに縛られないがゆえのくつろいだ自由さも感じられる。いろいろな風景の記憶が、ひとつの街になって、ぼくたちの散策を待っている、そんな豊かさがある。
 結果としては、先のみえない現状に向かって、彼らが時をまたぐ自己を等身大でみつめつつ、歳月分の経験と知恵でくるり独特の表現を放った、というしっかりした手応えを感じさせる。折々の生の現場から、織りなされた声が意志をもって、現在をあたためるように。

 曲がまたいい。ひとつひとつ違っていて、でも、一曲一曲が、紛れもないくるりを打ち明けるように物語っている。こうして時を超えて隣り合うことでまた、それぞれに胸襟をひらいている感じもする。
 個々の曲についてここでは、やはり聴いて手触りを楽しんでいただくのがいちばんだろう、と記すに留めるが、もうひとつ重要なのは、先ほど述べた生の質感ということだ。レコーディング後のさまざまな編集作業にあたる制作プロセスは“リモートワーク”で進められたのだろうけど、ある時代やある季節に、ある風土から持ち帰られたお土産のように、ときにはポラロイド写真のrawっぽさで、曲それぞれに匂いがあり、肌ざわりがある。
 それはおそらく、彼らがあくまでもマーケティングやプランニングではなく、愚直なまでの手触りをもって、これらの作品を自らの想像力や記憶から掘り出し、バンドで創り上げていったことの証左だろう。廻り道がそのまま立脚点になるような、折々の実地からの報告が聞こえてくるような気もする。

 それこそがそのまま、昨今のヒットチャート音楽--呼びかたがよくわからないからそう乱暴に言っておくが--への骨太な抵抗であり、実作による批評でもある。米国であれ日本であれ、打ち込みやピッチ調整で均質に仕立てられた商品が、仮に旧来の接触社会をクールダウンするような感性的魅力や距離感をもち、時代の価値として流通してきたとみるなら、このアルバムで実践されているのはまさしくそれ以前の暑苦しい接触社会の“密”から絞り出された熱気と匂いの「解凍」でもある。
 録音された瞬間瞬間の生々しさは、彼らが生身で楽器演奏を行っていたことの記憶を必然的に留めている。目の前で楽器が鳴り、音楽が起ち上がる空気がそこにまざまざと蘇る。バンドによる作品創作から放たれてくるそうした愚直さと愛らしさは、いまだからこそ、いよいよじっくりと音楽を聴く心に渇望を呼び覚ますものだろう。
 あるいは、今後の社会環境の変化を受けて、むしろまたこちらの方角への揺り戻しもくるのかもしれない。少なくとも作品の質感としては、そのほうがぼくはずっと楽しい。だからこそ、このアルバムも聴くほどに愛着が湧いてくる。

 おしまいにやはり、曲についてもさわりだけ。アルバムのオープニングに置かれた「心のなかの悪魔」という曲は、ほんとうに素晴らしい。岸田繁というソングライターが、人間が、なにとたたってきたのか、ということが澄みやかに切なく迫ってくる。
 曲と詞の抒情的な美しさもさることながら、荒削りでつくり込まれていないからこそ、独特の刹那な感じや、儚げなヴォーカルの幻像が、詞の精神にさりげなくもぴったりと、薄氷の震えるような感覚をまっすぐに伝えてくる。どこか浮世離れしたような幽かな離脱感も漂う。2009年のニューヨークでのリハーサルで一度きり、バンドの一発録音で残されたテイクだと伝えられるが、重ね塗りもないだけに、とても私的な心情がすっと表れている気がする。
 
 この春のタイミングで聴くと、どうしていまここへきて彼、すなわち「心のなかの悪魔」が姿を現したのか、と空寒くなるほどだ。目にみえない新型ウイルスの脅威もそうだし、人々のささくれだった不安な気持ちも巷に溢れているだろうが、ひとりの時間は心のなかの悪魔とどうしたって向き合う機会を運んでくる。「翼で飛んでいた頃の 記憶を失って」とリフレインは歌う。きっと、ぼくはこの先も今年の春を、この曲とともに思い出すことになるだろう。「歩いて行こう 朝が来る前に」。
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