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原初の声と祈り―ブータンの聲明をふと耳にして

原初の声と祈り―ブータンの聲明をふと耳にして

久しぶりの知人から唐突な電話があって、思いがけず、ブータンの僧侶たちが唱える聲明を聴くことになった。そこは未知の場所で、ぼくにはどこか遠いところだというイメージしかなかった。音楽はそのように、聴き手の意識を瞬間的に旅立たせる。彼が現地で採集してきた簡素な音源で、音楽もまた素朴きわまりないものだった。そして、それは、知らない響きではなかった。
  • 青澤隆明
    2019.12.13
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 ひょんなことで、ブータンの聲明を聴いた。といって、現地に行ったわけではなくて、旧い知人がポータブルな機材で録音してきたものだ。だから、ほんとうにブータンのものなのかも、実のところぼくにはよくわからない。それくらいイメージができないのだが、チベットの聲明に源流をもつのだろうと想像はされる。

 西洋であれ、東洋であれ、音楽のはじまりには、祈りがあった。それは宗教的な場所に発展され保存され、やがて通りに出て、祭りの場ではなく、市井の暮らしのかたわらに寄り添うようにもなった。祈りがあるということは、言葉があるということで、そうでなくても人の声を母胎として育まれたのが、音楽のそもそものかたちだった。自然な響きから音程のようなものがかたちづくられて、リズムや和声を伴うそれぞれの体系をとっていったのだろうと思う。

 さて、聲明をぼくがはじめて聴いたのは、父親が唐突に家にもって帰ってきたカセットテープで、たしかチベットのものだった気がする。カセットブック、というような形態の出版物が、当時はいくらか流行っていたのだろう。それから、たしか比叡山の修業の様子を収めたものがべつにあって、修行僧が瞑想をしている、そのしーんとした静けさのなかで、時折喝が入れられる模様などがそのまま収録されたものもあった。

 ぼくが10代の頃、つまり1980年代には、そのような音を自宅で聴くことを好むような風潮があった。環境音楽というまでにはいたらなくても、LPレコード一枚にまるまる南紀白浜とかハワイとかの波の音が録音されているものとか、そういうパッケージがふつうに商品として流通していた。

 もっとむかしからあったのだろうが、そうしたインテリアで楽しむ野外や秘空間の響きが、ひとつ静かで豊かなライフスタイルとしてもてはやされるようになったのは、その時代になって、たぶんみんなが疲れはじめていたからだろう。だけどその分お金はあって、だから、ふだんとは違うこういう環境を、せめて音だけでも楽しみ、心地良く味わおうというムードが蔓延していたのではないかと思う。快適さは消費活動で手に入れるものだという、延々と繰り返される履き違えである。

 だけど、こうして、どんなふうに録られたかすらもあまりよくわからない記録音源のデータを簡易に再生していると、ブータンの聲明はそんなこととはいっさい関わりのないところで、しかし伝統を重んじながら根強く地道に続けられてきたのだろう、というふうに思う。あまりにもふつうに、しかし特別なものとして、土地に風土に脈動しているのだろう。

 宗教観もよくはわからないままに、ただ音響としてそれを流していると、ぼくの部屋がそのままたちまち寺院になる。ということはとくになくて、地産の素朴で、おそらく原初的なかたちが、ぼくたちのいう洗練とは異なる容貌で、ただ滔々と時間を繰り延べていくのを、なにか不思議な香りのするパレードがみえないところを過ぎていくのを眺めているような、そんな心持ちがするだけだ。その乱脈のような鐘やブーブーいう管のうねりのなかを、厳かにしかし柔らかく唱えられていく経の響きから、光をためた煙のように立ち上がる倍音が、不思議と懐かしいものに感じられてくるのだった。
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