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カルメンはエイミーじゃない。Ⅲ -新国立劇場 新制作オペラ『カルメン』をみて思ったこと(青澤隆明)

カルメンはエイミーじゃない。Ⅲ -新国立劇場 新制作オペラ『カルメン』をみて思ったこと(青澤隆明)

新国立劇場オペラ『カルメン』の話の続きの続き (2021年7月19日、新国立劇場 オペラパレス)。  
  • 青澤隆明
    2021.07.23
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 で、帰りの地下鉄で、ようやくプログラム・ブックレットを捲って、アレックス・オリエの演出ノートも斜め読みすると、そこにはエイミー・ワインハウスの、主としてヴィジュアル面でのイメージをこの舞台に借用した、ということが記されていた。もしこれを事前に知っていたら、ぼくはたぶんこのオペラを観に行かなかったかもしれない。

 理由はとてもシンプルで、エイミーは実在、カルメンは象徴でしかないということならば、生きたカルメンに会うチャンスはまずないだろうからだ。いくらカルメン役のステファニー・ドゥストラックが生々しく存在感を打ち出そうとしても、それは演じれば演じるほどにリアルから逸れて行く。大野和士が東京フィルハーモニー交響楽団を指揮して直情的な劇性を描くのに鮮やかな手腕を揮ったとしても、砂川涼子のミカエラが芯のある素朴さを通したとしても、である。さらには、こちらは古式床しいスター闘牛士のままだったエスカミーリョ役のフランス人歌手アレクサンドル・ドゥハメルが精彩を欠いていた、ということを差し引いたとしても。

 それでは、演出家のプランという檻だけで、オペラの運命や生命が決定し尽くされるかというと、もちろんそうでもないこともあって、ぼくが感じたそうした「ずれの思い」とはべつに、場面のところどころでドラマの緊張や高揚はあった。それこそはビゼーの音楽の、旋律の大らかな力というもので、それが殺されずに十分生かさえすれば、生も死もすべてが自由の名のもとに鮮やかに色づいたかもしれないのだった。結局のところ、ドラマの生命は視覚的な効果や観念の表象ではなく、音の響きのなかにこそある、とくにこのカルメンのようなオペラでは。そう思って地下鉄を降りると、地上は行くときとおなじ夏の暑さのままだった。
***
 ということを帰宅してざっと綴って、何日かそのままにしていた。ここのところ、なんだか忙しかったから。いましがた上げようかと思い立って、なにげなく思い出したら、きょう7月23日はエイミー・ワインハウスの命日だった。ちょうど10年が巡ったことになる。いまもむかしも虚しい現実を撃つように、歌だけが残っている。
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