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エッシェンバッハのボレロ - 不動と不穏のボレロ [Ritornèllo]

エッシェンバッハのボレロ - 不動と不穏のボレロ [Ritornèllo]

クリストフ・エッシェンバッハとパリ管弦楽団のボレロ。あるいは、顔だけで指揮はできるのか?
  • 青澤隆明
    2020.04.18
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 新年にラヴェルのボレロのことを書き連ねていたとき、しばらくしたら記そうと思っていたのが、クリストフ・エッシェンバッハのボレロのことだった。ちょうどNHK交響楽団を指揮する機会が近くあるのでそのときに、と思って、そのままもう3か月も経ってしまった。

 クリストフ・エッシェンバッハがN響とくり広げた2つの定期演奏会プログラムは、先頃TVでも放映された。NHKホールで大勢の見知らぬ方々とともにその生演奏を聴いていたのも、もうずいぶん遠いことのようにも思えたが、いったんオーケストラの演奏が始まれば、それはまぎれもなく最近の話であり、もっと言えば聴いている現在の出来事だ。ぼくはそこにいて、ぼくはそこにいる。

 さて、エッシェンバッハのボレロである。同じNHKホールでのコンサート映像を観たことがあった。パリ管弦楽団を指揮した2007年のNHK音楽祭での舞台だった。コンサートで聴いたことで、記憶には残っても、記録に残らないことは多々ある。しかし、それとは反対に、客席でははっきりとわからなかったことが、録音や映像では明解に捉えられているということもある。なんというか、原因が突きとめやすいことはある。

 先ほど、聴いた、ではなく、観た、と書いた。エッシェンバッハが、指揮した、と書いた。たしかに、エッシェンバッハは指揮台に立っていた。だが、指揮台に立つ黒づくめの人物は、ちょうど気をつけの姿勢のように両手を垂らして直立しているばかりである。開始に小さくテンポを振ったあと、それきりずっと突っ立ったままだ。ときどき身体を強張らせたりして、なにか尋常ではない緊張を漲らせていることはわかる。なにかしらの気を発している。なにかに耐えているかのように、じっとしたまま。

 風変わりな訓練か、一種の罰ゲームのようにもみえる。ボレロが高揚してくると、その頭がぴくっと動いたりする。身体の向きが少し傾いたりもする。それでも、エッシェンバッハは決めたことは頑として譲らないようにみえる。ずっと直立微動している。ようやく両手が宙を舞い出すのは、おわりのおわり、クライマックスの30秒くらいになってからだ。

 ここで貫かれるエッシェンバッハの執拗さは、ある意味、ラヴェルのボレロという曲の性格そのものの表明でもある。

 オーケストラのプレイヤーは、なにを感じとっていたのだろう。前のほうの客席に陣取っていなければ、気配以外のなにかを見て取ることは難しい。さすがにパリの名門である、この曲に指揮者の過度な演出や舞踊はいらないだろう。演奏にすべて表れているのだから、余計な身振りは不要である、とでもいうかのように、エッシェンバッハは頑なに立ち尽くしている。

 カメラが指揮者の正面や横顔を捉えていたのを観て、はじめてその実態が明らかになる。猛禽類のように、目や口に力を籠めて、エッシェンバッハは曲の進行をコントロールしていた。役者である。

 ぼくが好きなのは、局面ごとの面相の面白さよりもまず、全曲を振り終えるエッシェンバッハの表情である。つまりは、カタストロフの前後。それから、沸き起こる拍手を耳に、任務遂行、作戦完了といった顔を不敵に浮かべるところだ。エッシェンバッハはするりと指揮台を降りると、まっすぐに小太鼓のところへ向かい、スマートに奏者を讃える。ハードボイルドである。でも、音楽は鮮やかに生きられている。
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