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ツェートマイヤー・オン・ファイヤー―燃え滾るベートーヴェン

ツェートマイヤー・オン・ファイヤー―燃え滾るベートーヴェン

ヴァイオリンの偉才トーマス・ツェートマイヤーが、ベートーヴェンの協奏曲を弾き振りし、それからモーツァルトのハ長調交響曲「ジュピター」を堂々と指揮した。2016年から首席指揮者としてともに歩むスイス最古のチェンバー・オーケストラとの大熱演。(2019年10月28日、トッパンホール)
  • 青澤隆明
    2019.12.04
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 トーマス・ツェートマイヤーのヴァイオリンを聴くと、現代のすぐれたヴァイオリニストの大半が、ほとんどただ優秀なだけの奏者にみえてしまうから、怖い。
 1990年代にこそぼくもそのように感じていたが、若い頃のツェートマイヤーは尖っていて神経質で、かっかしていた印象も強かった。そのために、彼のことをたんに「鬼才」というふうに片づけて、というか、自分から遠ざけてしまっている聴き手も多いかもしれない。だが、近年のツェートマイヤーはそういうところにも余裕が出て、風格も奥行きも増し、つまりそれだけ自由自在になり、演奏が闊達になった。かといって安定走行ではない、綱渡りの滑空を聴いていると、ヴァイオリンはやっぱりこういうものだよなぁ、と思えてくる。

 そのツェートマイヤーが今世紀に入って指揮にも情熱を注いでいるということは、聞いてはいたがなかなか実演に触れる機会こそなかった。ムジークコレギウム・ヴィンタートゥーアという名前は、スイス最古の歴史を誇るチェンバー・オーケストラで、それこそいつかの冬、ぼくが雪道を滑らないようにして歩いて行ったことのあるホールを拠点としていたのだが、そのときはわずかな滞在しかできず生で聴くことはかなわなかった。その首席指揮者を2016年から務めているツェートマイヤーが、今回は独奏も兼ねてベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調op.61を披露し、演奏会後半ではモーツァルトのハ長調交響曲K551を指揮するというのだ。しかも、これはトッパンホール独自のプログラムらしい。

 で、そのベートーヴェンが非常に生々しかった。まだインクも乾いていない、というような表現はありきたりかもしれないが、その場で音楽が生まれて、蠢いて、うねりをあげて、脈動していく、というような様態を、まざまざと体感することができたのは確かだ。指揮者がソリストを兼ねているのだが、この場合はソリストが指揮者を兼ねているというのと、ほとんど同じと言ってよいくらい、ぴったりと合致している。
 ツェートマイヤーの独奏は鋭い直観と即興的な閃きに率直な自在なものだし、かなり瞬時の変化に敏感な表現を好むので、かなりの室内楽巧者でないとつけるのも合わせるのも難しいはずだが、彼らのアンサンブルは「つける」とか「合わせる」とか、そういう次元の話ではない。同じ精神から生えてきた草木のように、演奏の大きな生命の流れをつくりながら、それ自体の生命というのか、大きな意志の吹かす荒々しい風に自ら揺れて行くのだ。縦が合っていない、とかいうたぐいの話ではなく、それぞれが自発的に動き出すから、ちゃんとずれているのがむしろ自然なのである。ツェートマイヤーのヴァイオリンが切りこめば、ツェートマイヤーのオーケストラがそれを追いかけ、さらに煽り立てもするのである。
 あたかもそこにベートーヴェンがいるような、というのはちょっと言いすぎだとしても、目の前に巨大なツェートマイヤーがいる、というのはほんとうだ。オーケストラが全体としても、個々のプレイヤーの対話を通じても、まるごとツェートマイヤーのかたちをしている。

 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲で、ベートーヴェンが自らピアノ協奏曲版のためにつくったカデンツァをヴァイオリンに戻して弾く、というのは言ってみれば、鶏から産まれた卵を再び鶏に孵すようなものだろうか。こうした試みはクレーメルの実践が早かったと思うが、昨今この自作カデンツァを採る演奏はしばしば耳にするし、むしろちょっとした流行りと言ってもよいくらいだろう。
 けれど、ほんとうのことを言うと、ぼくはそれほどうまく行っている実演に出会うことはなかった。どうしたって、ピアノのほうが向いているし、そのほうがこのカデンツァに特徴的なあのティンパニも活きようものだ。思い起こすまでもないことだが、なにしろピアノはベートーヴェンの第一の楽器なのである。
 それを名ヴァイオリニストのシュナイダーハンが再編曲した版にもとづいて、ツェートマイヤーは圧倒的なカデンツァを披露したのだが、その真実味は決してとってつけたようなものではなく、時代楽器演奏の成果も踏まえつつ、まさしく堂に入った演奏だった。それはティンパニを巻き込むように弾かれた独奏の柄の大きさと勢いによるだけでない。なにせツィンバロンにも通じる手触りで、ツェートマイヤーは要所にピアノのヴィルトゥオーゾふうの力強い和音を鳴り響かせたのである。これならば、ティンパニがたんなる景気づけではなくて、決めどころで必要とされる鼓舞となる。そのことをぼくは、この日の生演奏でようやく知る思いがした。

 さて、総じてみれば、ヴィオリン協奏曲では舵そのものが激しく揺れ動くものだから、いくら綿密に構築された曲の確かな演奏だとはいっても、堅固な安定感とは様相が違ってくる。聴き手もそうして生成の興奮を追うスリルに乗り込むことになるわけだが、偉才の音楽精神が指揮に集中して臨んだモーツァルトのハ長調交響曲では、当然ながらもっと演奏全体が落ち着いた構えをとる。海原や中空から、大地に足場を移したように。それでも、ときどきの表現が出来合いのものではなく、その場で組み上げられ、織りなされていく熱気を帯びた愉しみは変わらない。
 その音楽はまさしくトーマス・ツェートマイヤーのかたちをして、大きく鳴り響いていったのだった。
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