純朴な夢と詩情の領域 -濱田滋郎さんを偲ぶ

純朴な夢と詩情の領域 -濱田滋郎さんを偲ぶ

沈黙した音楽 Música Callada
  • 青澤隆明
    2021.03.24
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 濱田滋郎さんが亡くなった。大切な人だった。

 3月21日の未明に急逝されたときいた。きっとお仕事をされたあとだったのだろう。

 悲しかった。
 
 いくつもの肩書が示すように、濱田滋郎さんは長年にわたって、幅広い活躍をされてきた。きっと音楽のために、音楽を愛するために、音楽を愛する人のために、ご自身ができることはなんであってもせずにはいられない、広大な思いをお持ちだったのだろう。

 独学にして独立独歩の人でありながら、だからこその奥深い情熱で、ひとりの人間として、素晴らしい文章家として、音楽評論家として、スペイン文化研究家として、音楽祭や音楽会の主宰者として、そしてなによりも音楽の愛好家として、さまざまな人を励ましつづけ、無数の人々を音楽のほうへとつよく惹きつけていかれた。

 でも、どう名乗るか、人がどう呼ぶかはどうでもいい。ぼくにとってはなにより、音楽を愛する心を歌い続けた人だった。そして、音楽を愛する人間を、大きく愛そうとする人だった。

 いつもまわりには誰かがいて、あれほどやわらかに微笑みながら、どこかにはもの静かで、孤独な雰囲気も感じられた。それは書く人の空気だった。音楽や文学にたったひとり、ひたむきに体当たりで向き合おうとする寡黙な強度から響いてくる頑丈な意志だった。

 音楽を想うことは素晴らしい。音楽について書くことは切実なことだ。そうした大切なことを、ぼくは濱田滋郎さんの文章からたくさん聴きとった。とくにスペインやラテン・アメリカの音楽に関して、最初の道筋を示してくれたのは濱田滋郎さんの文章や語りだ。アリシア・デ・ラローチャのLPと、そこにいつも寄り添うように載っていた濱田滋郎さんの文章が、スペインのピアノ音楽への、ぼくのひとつめの渡し舟だった。たぶん、日本の聴き手はたいがいそうだと思う。

 フェデリコ・モンポウについては、バルセロナからカルメン・ブラーボ女史を招いて、濱田滋郎さんは自らフェスティヴァルも主催された。1992年の5月だったか、カザルスホールで、ぼくは夢中になって聴いた。それから世紀をまたいで、アリシア・デ・ラローチャのリサイタルを企画した折など、まっさきに濱田滋郎さんに原稿をお願いした。「いいですよぉ」と、独特の抑揚でおっしゃった。ラローチャさんと濱田さんがいっしょにいる光景は、とても温かなものだった。

 ラローチャのモンポウ・アルバムをいましがた聴いて、それでやむにやまれず、そのままこれを綴っているのだが、そこにはぼくが30数年来ずっと大好きな文章が寄り添っている。それは、モンポウが亡くなる4年ほどまえの邂逅となった。

 「1984年の1月、私は90歳を数えるモンポウをバルセローナの自宅にたずねることができた。そろりそろりと夫人(すぐれたピアニストのカルメン・ブラーボ女史)に支えられて身を動かし、言葉は少々もつれがちであったが、耳や目に衰えはなく、どこまでも優しく澄んだ表情の、たとえようもない美しさが私の心に刻まれた。私たちが日ごとに忘れがちな、純朴な夢と詩情の領域を、決して凡庸に落ちることのない流儀――魂の深みを表わすための流儀で守り抜いてきた人の、ただ在るのみで胸を打つ顔がそこにあった。」

 これこそ、まさに、フェデリコ・モンポウであり、濱田滋郎だとぼくは思う。

 アリシア・デ・ラローチャが亡くなってもう12年がめぐろうとしているが、濱田滋郎さんもおなじ齢、86歳で旅立たれてしまった。
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