6月になって、舟歌 - 季節のうた

6月になって、舟歌 - 季節のうた

はやいのかゆっくりなのかよくわからないまま、もう6月も半ば。CD◎ウラジーミル・アシュケナージ(p) 「チャイコフスキー《四季》他」(Decca, Universal Music)
  • 青澤隆明
    2020.06.16
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 奇妙な感じで春が通り過ぎてしまい、気がつけば真夏日に梅雨である。現実離れしたようなあり様がそのまま、できのわるいいまの人間の現実というものなのか。カルガリーではテニスボールくらいの雹が降り、コルシカ島では貯水池が溢れて水浸しになったさまを、朝からテレビで眺めていた。窓の外は曇り。アジア各地でも、これから集中的な豪雨に襲われ、濁流が暴れ、橋が流されたり、崖が崩れたりするのだろう。感染症も重なり、心配は大きい。日本もますます熱帯の気候に近づいているようだ。

 四季というのは、かけがえない贈り物で、ぼくたちの情緒や生活に決定的な影響を与えてきた。もう6月で、次が7月で……という移ろいがたんに数字や頁が捲られることではないとわかるのは、ぼくたちがこれまでのところ、そうした地球の自然の気配とともに生きてきたからだ。

 それがもはや滅茶苦茶になり、というより人類が自己都合で破壊に勤しみ、その事実をまともに顧みなかったことが、生態系や自然の環境のバランスを狂わせてきたのは明白だろう。もちろん、それ以外にもさまざまな要因はあれど、気候の温暖化に関して昨今もっとも責任があるのは、人間の工業化社会が幅をきかせすぎたことに違いない。ぼくたちもそれぞれ、そうした営みによって構成された社会のなかで、消費と便利を貪ってきたのである。というようなことを改めて辛辣に思い知らされるように、ぼくたちは2020年の春を失い、そうしてこの先を憂慮と不安で染められたままだ。

 世界各地で自然の環境や移ろいが異なり、それによって育まれてきた文化も違うことから、ぼくたちは場所場所で、あるいは民族ごとに、さまざまな色彩を味わってきた。日本の5月は緑の季節で、6月の多くは梅雨に浸される。これがロシアはペテルブルクだと、白夜に、舟歌、というふうに詩に歌われ、そこにチャイコフスキーが寄せた音楽がまた、日本の四季とはまったく違う、豊かで美しい色合いになっている。抒情が季節に追うところは、やはり大きいのだとしれる。

 6月になって、ぼくがチャイコフスキーの舟歌を思い出すのは、だから梅雨時とはまったく関係がないのだけれど、そこにもたしかに水の心象は密やかに流れている。すぐに手もとに出るものでいくつかあるが、やはり最初に買ったCDは、アシュケナージのピアノだから、まずはこれを聴くことになる。

 アシュケナージの汚れない歌の美しさが、チャイコフスキーの抒情を澄んだまま掬い上げている。手がきれいだ、という感じが、あたたかくする。濃やかな織りなしも巧みで、宝飾の扱いに馴れた繊細な手つきだ。この一枚には、『四季』の全曲だけでなく、作品72などからもいくつかの小品が前奏され、まさに珠玉というのにぴったりなチャイコフスキー・アルバムに仕上げられている。
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