ショスタコーヴィチ、アダムズ、フェルドマン、グバイドゥーリナ - 下野竜也指揮 読売日本交響楽団

ショスタコーヴィチ、アダムズ、フェルドマン、グバイドゥーリナ - 下野竜也指揮 読売日本交響楽団

読売日本交響楽団 第594回定期演奏会 下野竜也(指揮)、上野耕平(サクソフォン) ショスタコーヴィチ:エレジー(シコルスキ編纂・弦楽合奏版)、ジョン・アダムズ:サクソフォン協奏曲、フェルドマン:On Time and the Instrumental Factor(日本初演)、グバイドゥーリナ:ペスト流行時の酒宴(日本初演) (2020年1月15日、サントリーホール)
  • 青澤隆明
    2020.01.17
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 ドミトリー・ショスタコーヴィチ、ジョン・アダムズ、モートン・フェルドマン、ソフィア・グバイドゥーリナ。しかも、グバイドゥーリナはプーシキンの戯曲から題名を採った「ペスト流行時の酒宴」。新年から、なんとも物騒な気配である。下野竜也が読響の正指揮者、ついで首席客演指揮者というポストを離れて、2年10か月ぶりの再会に組んだ大胆なプログラム。

 正直なところ、彼らの作品がどう結ばれていくのか、ぼくには想像もつかなかった。ロシア、アメリカ、アメリカ、ロシア。とはいえ、作曲家のことを考えて、思い浮かぶのは鮮やかな差異ばかりで、そこに特別な連想は働いてこない。聴くまえもそうだったが、聴き進んでみても、やはりそうだった。おそらく、そういうプログラムと演奏だったのだ。

 下野竜也の指揮は、愚直なまでの真摯さを貫いて、綿密に時間を継いでいく。それは、どの曲に臨んでも、基本姿勢として変わらない。曲の性格がどうあれ、彼が正面で読みこみ、受け止める音楽の容貌は、そうした熟視の結果、導き出されるものである。巧みに誇張をしたり、物事を滑らかに宥めたり、器用にリズムを捌いたりすることもない。ジョン・アダムズ近年の協奏曲のような作品でさえも、それはいっこうに変わらない。どっしりとしたものである。

 だから、かえって、4人の作曲家の異なる個性や性格、書法や作風が、長短それぞれに、差異を際立てるように聞こえてくる。時代的なことを言えば、ショスタコーヴィチの原曲が1930年、フェルドマンが1969年、グバイドゥーリナは2005年で、アダムズが2013年。フェルドマンとグバイドゥーリナの作品は、今回が日本初演だという。

 ショスタコーヴィチはさておき、はたして、これらの作品が次代までのレパートリーになっていくのかどうかすら、このコンサートを聴くなかでも、ぼくにはよくわからなかった。というか、そもそも実演されなければ、どうにもならない。コンサートで聴かなければわからないことも大きいし、とくにグバイドゥーリナの特殊なオーケストレーションなどはそういう性質が強いだろう。それぞれの現在の需要と求めに応じて、作品は書かれているわけで、だとすれば、新作は当代において問いかけ以前に意味をもつことがまずは重要になってくる。アダムズのサクソフォン協奏曲について言えば、作品の完成度やそれ自体の魅力以上に、この日も確かな音で目覚ましいソロを聴かせた上野耕平のような、新しい世代の名手が愛奏するかどうかが今後に大きく関わってくるだろう。

 さて、ぼくがこの日もっとも感銘を受けたのは、フェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor」という抽象的なタイトルをもつ、そう長くないオーケストラ作品。地上の長さで、8分ほどになるか。下野竜也の指揮ぶりも読響の演奏も、この曲でいちばん焦点が合っていたように思った。前後の曲が長いので、余計に引き締まって聴こえたこともあるかもしれないが、そういう相対的なことはおいても、強い凝視によって直視すべき作品という感じが、それだけ強く集中して出ていたということがいちばんだ。

フェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor」を聴くなかで、ぼくが感じていたこと、みていたものは、マーク・ロスコの絵画をたくさん観たときに抱いた感覚と、とても近いように思えた。ロスコはキャンバスと設置空間、フェルドマンはオーケストラと、どちらも巨大な空間に鳴り響く思念をコンポジションした。フェルドマンの本作は今回が日本初演で、彼のピアノ曲などは聴いてきたが、このようにロスコの色彩とコンポジションに近接した幽境へと誘われたのは、やはりオーケストラ作品の響きの広大さ、その力と強度が大きかったのだろう。

 モートン・フェルドマンとマーク・ロスコとの交感がいつから始まったのか、ぼくはよく知らない。だから、あるいはぼくの勘違いかもしれないが、どうあれ、フェルドマンの音楽を聴いて、自然と導かれるように、ロスコの絵画に対峙したときの感じが蘇ってきたのは確かなことだ。フェルドマンの有名な「ロスコ・チャペル」は1971年に作曲されて、翌年の同礼拝堂完成式で初演されるが、ロスコ自身は1970年に自殺している。本作は1969年の作品だから、直接の関係がどうということは調べていないが、そういう具体的なことよりもなによりも、フェルドマンの実演を聴いているなかで、そのときに連想された、あの感じこそが、ぼくにとっては大切だ。

 ロスコの巨大な絵画を何枚も観続けたときに捉えられた感覚と、フェルドマンの音響を体感しながら、コンサートで抱いた感じ。どちらもぼくのなかでは閾の直視と執拗な凝視ということで繋がっている。おそらくそれは、下野竜也が作品を見据える姿勢にも依っていた。その感覚を言葉にすることは、いまのぼくにはまだできない。それでは書くうえでの責任を果たすことには到底ならないが、だからこうして生きていられる、という気はする。
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