カルミニョーラのチャッコーナ ― バッハの無伴奏パルティータをめぐって

カルミニョーラのチャッコーナ ― バッハの無伴奏パルティータをめぐって

カルミニョーラのバッハをもうひとたび。CD◎ジュリアーノ・カルミニョーラ(vn) J.S.バッハ:ソナタとパルティータ BWV.1001-1006 (Deutsche Grammophon, 2018)
  • 青澤隆明
    2021.02.16
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 ジュリアーノ・カルミニョーラのバッハを、今朝もまた聴いた。6つの無伴奏のCD 2で、パルティータを順に並べたほう。パルティータ第2番ニ短調の終曲は、原譜にイタリア語でCiaconnaと記されているとおり、カルミニョーラが弾くと、それはシャコンヌではなく、やはりチャッコーナになる。

 ドイツふうではなくて、イタリアふうという意味だが、かといって舞曲という点に強く意識を集中した演奏でもない。重音の響きは冒頭から荘厳といっていいし、そこから劇性と緊迫した意志を保って、めくるめく旅がくり広げられる。それでも、その足どりは地の重力や劇の圧力に塗り潰されることはなく、ひとつひとつの音が風に舞い、空気中に溶けていくような優美な軽やかさとそよぎをもっている。

 バッハのパルティータはもちろん舞曲様式をベースにしているが、そこで社交的に踊らせようとしているわけではなく、身振りの舞いと精神の踊りを重ねて――というよりもそもそも一体化したものとして――円を描くように速度を変えつつ旋回させているように感じとれる。終曲のチャッコーナの道行きはとくに螺旋を思わせる。

 踊りというものには着地の前提があってこそ浮遊感や飛翔感が生み出されるが、カルミニョーラのヴァイオリンだとその身振りはじつに軽やかで、重力に従属する気配もない。チャッコーナの最後の主音が、空気中に溶けるように吸い込まれていくのはその絶妙なあらわれだ。螺旋の旋回は、ここで幕切れる。そこにいたるまでの多様な道行きにも、柔らかに泡立つような響きが微笑んでいたし、後に続くホ長調パルティータなどでもフラウト・トラヴェルソのようなやわらかな音が行き交わされる。

 もっと言えば、かのチャッコーナのさなかにさえ、ぼくにはどこかグラッペリを思わせるやわらかな微笑が聴こえてくる。ちなみに、グラッペリはぼくが生で聴いたなかで、もっとも好きなヴァイオリニストの筆頭。この楽器に望むことの大半をカルミニョーラが叶えてくれる、と先日ここに記したのにはそうした意味合いも含まれている。
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