悦楽の園のその先は--舘野泉ピアノ・リサイタルを聴いて

悦楽の園のその先は--舘野泉ピアノ・リサイタルを聴いて

演奏生活60周年 舘野泉 ピアノ・リサイタル ~悦楽の園~ (2020年11月10日、東京オペラシティ) ◇J.S.バッハ(ブラームス編曲):シャコンヌ 、スクリャービン:「2つの左手のための小品」 Op. 9、光永浩一郎:左手ピアノ独奏のためのソナタ “苦海浄土によせる”(世界初演)、新実徳英:夢の王国 ー 左手ピアノのための四つのプレリュード (委嘱作・世界初演)、パブロ・エスカンデ:「悦楽の園」(委嘱作・世界初演 /「舘野泉左手の文庫」助成作品)
  • 青澤隆明
    2020.11.11
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 昨夜、舘野泉ピアノ・リサイタルを聴いた。演奏生活60周年、そして84歳のバースデーを祝うコンサート。しかし、温かな聴衆の目の前に広がっていったのは、尽きせぬ音楽の泉をどこまでも汲み上げようとする、ひとりの人間の静かで熱い格闘だった。コンサートに添えられたタイトルは「悦楽の園」--それはエスカンデの新曲の題名であり、ヒエロニムス・ボスの祭壇画からの霊感であり、おそらく舘野泉にとって音楽と生きる場所をそのまま名指したものであるに違いない。

 バッハの「シャコンヌ」のブラームス編曲、スクリャービンの「2つの小品」op.9は、左手のために書かれた独奏曲のなかでも至宝とされるレパートリーだろう。舘野泉はそこからコンサートを厳かにはじめた。思うように行かない、その瞬間瞬間には苦節も滲む。しかし、音楽が離れていくことは決してない。舘野泉は、どんなときもまっすぐに臨むだけである。音楽に向き合うやりかたは、それしかないということを信じているからに違いない。そして曲にはかならず、行く先がある。

 そこからの3作はすべて真新しいものばかりで、いずれも舘野泉のために捧げられている。演奏活動60周年の記念といっても、思い出の寄せ集めではなく、新しい作品への挑戦がぎっしりと連なるのである。回顧ではなく、新鮮な挑みである。さすがは舘野泉だ、というより、それが楽しくてしかたがないといった、無我夢中の感動が聴き手にもはっきりと伝わってくる。「苦海浄土を抜け、夢の王国を過ぎ、悦楽の園に至る。そしてその後は・・・」。名文家の舘野泉はこの日のプログラムに寄せたエッセイをそう結んでいた。いつも先のことを楽しみに考えている人らしい詩的なユーモラスな筆致だ。

 光永浩一郎のソナタは “苦海浄土によせる”と題されたとおり、石牟礼道子の小説に導かれて2018年に作曲された。「海の嘆き」、「フーガ」、「海と沈黙」の3楽章。リサイタル後半の2曲は委嘱新作で、新実徳英の『夢の王国』は作曲者自身がみたり想像したりした夢の世界を描いたという4つのプレリュード――「夢の砂丘」、「夢のうた」、「夢階段」、「夢は夢見る」。パブロ・エスカンデの『悦楽の園』は、ボスのトリプティックによる「自由な幻想曲」で、導入と3つのパネル――「楽園でのアダムとイヴ」、「悦楽の園」、「地獄」で構成されている。

 苦しみも喜びも、夢もなにもかもを手探りで誘い出しながら、ピアニストは前へ前へとじっくり進んでいく。演奏のさなかに過去を振り返ることがないのは、すべてはここにあり、その先へと続いているからだ。発見の喜び、音楽に触れる喜びは、そのまま舘野泉の澄んだピアノの音に、清らかに息をひそませている。うまく行くときも行かないときも、音楽とともにあることは、いつも素晴らしい。だから、ピアニストはひたすらに、まっすぐと歩いていく。

 愚直というのはいい響きの言葉ではないかもしれないが、舘野泉のピアノはひたむきで、健気だ。年輪を重ねることにはいろいろな意味があるに違いないが、舘野泉の音楽の感動には、いつだって初心のような瑞々しさが弾んでいる。それが汚れない水脈となって、多くの樹木を育み、葉や花を息づかせている。季節は巡り、命は移ろう。なにごとも諦めている暇などないのである。舘野泉の音楽は、聴いたあとにいつもそのことを美しく思い出させてくれる。静かに湧き上がってくる思いは、感謝に似た喜びである。

 さて、『悦楽の園』がボスの絵画に触発された「音楽地獄」をもって結ばれた先に、ひっそりとひらいたのはまず、時のはざま、そして聖母への祈りだった。すなわち、この夜のアンコールに披露されたのは、村田昌己の「時のはざま」、さらには吉松隆が編曲したカッチーニの「アヴェ・マリア」が続いた。84歳になったばかりのピアニストのその先のことは、時が告げるだろうし、また新しい曲とともに語られるはずだ。
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