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花火 へ - ストラヴィンスキーとリムスキー=コルサコフ

花火 へ - ストラヴィンスキーとリムスキー=コルサコフ

季節のうた、夏。花火。ストラヴィンスキーとリムスキー=コルサコフ。
  • 青澤隆明
    2021.08.31
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 ストラヴィンスキーの自伝によると、彼がリムスキー=コルサコフのもとを改めて訪ねたのはピアノ・ソナタを作曲する上で、とくに形式上の困難にぶつかっていたからだった。その相談のために、1903年の夏の終わりごろ、すでに知己だったリムスキー・コルサコフがいた田舎に訪ねて、二週間ほど彼のもとで過ごした。ストラヴィンスキーは以前から熱心にリムスキー=コルサコフのスコアをヴァーグナーのものとともに研究していた。

 さて、リムスキー=コルサコフは形式的なことに加えて、オーケストラの楽器の基本的な音域や、管弦楽法の初歩もストラヴィンスキーに教えてくれた。その秋から3年間レッスンは定期的に続き、古典派の曲の管弦楽化の訓練を経て、ストラヴィンスキーが交響曲を書き上げるまで続いた。大学を出て、結婚もしたストラヴィンスキーは、1906年から7年にかけて作曲した交響曲を師に献呈した。

 その冬ごろからリムスキー=コルサコフの健康状態は不安定になり、ストラヴィンスキーはレッスン以外にも彼を訪ねるようになった。休暇のために田舎で過ごす挨拶をしにいったときに、計画中の短い管弦楽幻想曲の話をした。題名は「花火」と決めていた。師はその作品に興味をもち、できあがったら送るようにと言った。

 ストラヴィンスキーはまもなく挙式する師の愛娘の結婚式の祝いに送るべく、すぐに作曲に取りかかり一か月半で曲を仕上げると、リムスキー=コルサコフの滞在先に送った。数日後、電報が届いて、彼の逝去を告げ、追って封書も「宛名人逝去」で送り返されてきた。1908年6月のことである。

 サンクトペテルブルクでの師の埋葬、葬儀に出席した後、田舎に戻って追悼のために『葬送の歌』を作曲した。この初期作「葬送の歌」は、先のピアノ・ソナタとともに長らく行方不明とされた作だ。ストラヴィンスキーは1902年11月に父を失くしていたから、親しくしたリムスキー=コルサコフとの別れはそうとうにこたえただろう。「花火」はお祝いで、「葬送の歌」はもちろん追悼だが、2曲は続けて書かれたことになる。
 
 さらに自伝によれば、「葬送の歌」は師の亡くなった年の秋、そして同じ冬の間にはジロティが『幻想的スケルツォ』と『花火』を演奏した。その演奏は「私の来たるべき音楽家としてのキャリア全体に重要な日を画すものだ」とストラヴィンスキーは自伝で記している。ディアギレフとの関係が、彼の逝去まで20年にわたって続くことになったからである。ディアギレフとの関係については、「意見や趣味の違いによっても揺るぐことがないお互いの情愛によって深い友情が育まれていった」と綴っている。

 つまりは、師に捧げるお祝いとして準備した「花火」こそが、ストラヴィンスキーのパリでの活躍の序奏となる花火になったわけである。
 

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