ドビュッシー、ロワイエ、ラモー、ドビュッシー、ベートーヴェン。 -アレクサンドル・タローの影を追って(5)

ドビュッシー、ロワイエ、ラモー、ドビュッシー、ベートーヴェン。 -アレクサンドル・タローの影を追って(5)

アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル ドビュッシー:『映像』第1集より「ラモーを讃えて」、ロワイエ:クラヴサン曲集第1巻より、ラモー:新クラヴサン組曲より、ドビュッシー/タロー編:牧神の午後への前奏曲、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 op.111(2019年11月30日、静岡音楽館AOI)
  • 青澤隆明
    2019.12.30
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 前日のヴェルサイユ・プログラムを聴けなかったこともあり、またロワイエ、ラモーに、ドビュッシーとベートーヴェンを組み合わせたプログラムへの興味もあって、アレクサンドル・タローのリサイタルを聴きに、2019年11月30日、静岡音楽館AOIへ行った。
 フランス・バロックばかりではなく、フランス繋がりの野平一郎が音楽監督を務める音楽館にふさわしくドビュッシーと、同館のプロジェクトの一環としてのベートーヴェンのソナタが組み入れられていたが、タローは全体として大きなアーチを描くように、時代を交通させるこの多様なプログラムをひとつに連繋していった。
 
 ドビュッシーの『映像』からの「ラモーを讃えて」で始まり、ロワイエを経て、ラモーに向かうのがプログラム前半。タローの直截で音楽への没入は、即時にフランスのバロック作品との同化をみせ、以前にも増して鮮やかさと大胆さをまざまざと押し出してくる。
 
 後半は、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を出版譜もあるタロー自身の編曲で、落ち着いて端正に聴かせたあと、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタ op.111へと踏み込んでいく。ちらも透明な響きで細やかに弾かれながら、剛直に垂直性を打ち出しつつ、表現のダイレクトな魅力を引き立てて、フランス・バロック演奏での鮮やかな即興性とも通じ合わせる。曲の終盤で多用される高音のトリルは、直接的にラモーへの連想を掻き立てもするし、ベートーヴェン後期の抽象的な造型観は、バロックの記号的な技巧表現ともどこかしら繋がっていく。少なくとも、タローの演奏はそのようにして、ドビュッシーからフランス・バロックへ、そして再びドビュッシーを介してベートーヴェン後期へと、様式観を超えた音楽的・音響的な連想を結んでいった。
 
 これこそタローのピアノでベートーヴェンを聴く愉しみである。こうして遠くみえるものを結びあわせる視野と表現の脈絡は、彼というキュレイターの耳と、独特のプログラム・デザインをひとつにまとめる独自のピアニスティックな手腕によって引き寄せられたものだ。
   並び合う絵によって、展覧会の主題や時空は変わってくる。タローはそれを熟知して、時代をまたぐ難題を強烈な興味と挑戦を自らに課し、一連の大きな流れのうちにまとめ上げてみせたのだった。それもエレガントで、ワイルドに。
 野心と大胆さが加わって、いよいよ自由な心境を遊ぶようになったアレクサンドル・タローだからこその、鮮やかな魔法といっていい。彼のピアノ演奏の新しい局面を聴いていくのが、ますます面白くなってきた。
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