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あたたかく満ちてくるベートーヴェン - ニコラ・アンゲリッシュのピアノ

あたたかく満ちてくるベートーヴェン - ニコラ・アンゲリッシュのピアノ

諏訪内晶子&ニコラ・アンゲリッシュ デュオ・リサイタル (2020年2月14日、東京オペラシティ)のことなど。
  • 青澤隆明
    2020.02.22
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 日記というのはたぶん習慣が大きいものだから、しばらくあいてしまうと、ずっとあいたままになりがちだ。それでも日々は過ぎていく。日々が過ぎていくというのはあたりまえのことだけれど、これは実はすごいことである。ぼくはそこにいて、ただ日々は過ぎていく。ふたつの流れがいっしょになるのか、べつべつのものなのかわからないが、そのテンポはどうやら少し違うものらしい。

 さて、この「音楽日記」をひらいてみると、2月のあたまにいくつか悲しいことを書いてから、そのまま日が経ってしまっていた。そのあいだにいくつもコンサートに行ったけれど、それらについてすぐに書く気にもなれなかったりで、ほかの書きものをしたりしていて。

 悲しいことばかりでもなければ、ずっとさみしいわけでもないので、次にここに記すときは、幸せに近いことを書こうとどこかで思っていた。それで、ニコラ・アンゲリッシュがベートーヴェンを弾き出したときに、ぼくのなかにたちまち満ちてきた気持ちが、それに近いように感じた。

 2月14日の夜、ヴァイオリンの諏訪内晶子とのデュオで、ニコラ・アンゲリッシュはベートーヴェンのソナタを3曲、成立順に弾いていった。最初のへ長調ソナタop.24の冒頭から、アンゲリッシュのピアノのあたたかな響きにひき込まれた。いいピアニストだなあ、と自然とため息が漏れるように思った。そのあともずっと、その気持ちはゆっくりと温まっていくばかりだった。それは、幸福な室内楽の時間だった。

 ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第5番へ長調 op.24の後は、第7番ハ短調 op.30-2、そして後半には第9番イ長調 op.47「クロイツェル」が、じっくり綿々と弾き継がれていった。作曲の年代も違えば、作品の性格もまったく違うけれど、それをきちんと熟慮しながら、細部まで綿密に息づかせていこうとするピアニストの姿勢は、山のように変わらなかった。とても謙虚で、ていねいで、見事に繊細だった。諏訪内晶子のヴァイオリンも、音に対する配慮を、一貫して精細に保った。

 3曲を通じては、ヴァイオリンつきのピアノ・ソナタが、次第に両者が対等の立場での対話に高揚していくプロセスが、異なる調性や性格づけも豊かに描かれていった。どれほどじっくりと落ち着いて歩んでも、ヴァイオリンにもピアノにも弛緩したところがなく、デュオの響きがゆったりと充ちてきた。ふたりの10余年前の共演からみて、格段に音楽が熟していることは明らかだろう。

 諏訪内晶子が情熱をもって続けている「国際音楽祭NIPPON」の一環なのに、ピアノのことばかり書いていて恐縮だけれど、このピアニストのこの音で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴きたい、という強い思いを抱いた。しかしなによりも、室内楽ならではの豊かさと余裕であることもまた濃密に感じたし、それは気心の知れた旧友どうしの再会であることが大きいのに違いなかった。ソロやオーケストラのときとは、アンゲリッシュのピアノの音もまた異なっていて、いっそうたっぷりと大らかというのか円かというのか、弦に親しくよく馴染んで、包容力のある響きがした。このデュオはぜひ続けてほしいと思った。

 その数日後、アンゲリッシュといろいろ話していて、アルド・チッコリーニが亡くなって5年になることをやはりさみしく思い出した。昨年秋に初めて会ったときにも、「私たちは音楽作品に仕える者だ、とアルドがよく言っていました」と、12歳のときに出会った師のことを彼は語った。「つねに作曲家とか概念とかいうことよりも、まず曲があって、それに誠実であるほかないのだと思います」と、そのあとアンゲリッシュは言ったのだった。

 ところで、“ニコラ・アンゲリッシュ”というのはいささか風変わりな表記で、本拠のフランス読みなら“ニコラ・アンジェリシュ”だろうし、故郷のアメリカ読みなら“ニコラス・アンゲリッチ”がふつうだろう。と、ずっと思っていたのだけれど、本人も笑って言うように、彼の英語は長く暮らすフランス語のアクセントをいくらか帯びていて、それならばそれふうな気も、ちょっとした。
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