メルニコフのシューベルト

メルニコフのシューベルト

アレクサンドル・メルニコフがフォルテピアノで弾いた「さすらい人幻想曲」のコンサートとCDのことなど。CD◎ Alexander Melnikov (fp & pf) “Four Composers - Four Pieces - Four Pianos”(harmonia mundi, 2018)
  • 青澤隆明
    2022.03.11
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 アレクサンドル・メルニコフのピアノをひさしぶりに聴いた。といっても、レコーディングで、実演はと言えば、《東京・春・音楽祭》でのシューベルトがまもなく。この4月にソロ・リサイタルだけでなく、師にして盟友ともいえるアンドレアス・シュタイアーとのデュオもあるから、ほんとうに楽しみでならない。

 で、メルニコフのシューベルトが待ち遠しく、きょう聴いたのは“Four Composers – Four Pieces-Four Pianos”というたいへんユニークなアルバム。メルニコフの才気渙発ぶりがヴィヴィッドに伝わる一枚だ。タイトルどおり、シューベルトの「さすらい人幻想曲」をアロイス・グラーフのフォルテピアノ(1828~35年頃の製作)で、ショパンの「12のエテュード」を1837年製のエラール、リストの「ドン・ジョヴァンニの回想」を1875年製ベーゼンドルファー、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカの3つの楽章」を2014年製のスタインウェイ・ピアノで演奏するという時代をまたぐ旅。ピアニストはもちろんメルニコフひとりで、だからこそ作品と楽器ごとの多様な表現を超えた一貫性が訴求力も高く保たれている。

 大事なことは企画アイディアそのものよりも、作品と楽器に託された想像力をいかに抽き出すかという際に、メルニコフがバロックから20世紀までの幅広い響きのパレットをよく吟味し、愉しげに活かしていることだ。具体的な感興がそれぞれに違って、だから互いが新鮮に隣りあって、反発したり通じたりしている。

 じつはこのアルバムよりもさきに、ぼくはメルニコフが4台の鍵盤楽器を弾き進むコンサートを聴いた。だから、しばらくの間はやっぱり実演の鮮烈さが先に立っていた。時間軸でいうならアルバムのレコーディングが2016年から17年にかけてで、ぼくが聴いたトッパンホールのコンサートは2021年1月21日だから、CDをもっと早く聴いてしかるべきだったが、それはそれでよかった。生演奏の興奮のほうが、見事に克明に刻まれたからだ。

 そのコンサートではステージの下手から上手へと4台もの鍵盤楽器が、時代を下るようにぎっしりと並べられていた。ミートケ・モデルのドイツ型チェンバロ、アントン・ワルターのレプリカとヨハン・ゲオルグ・グレーバーのオリジナルの二様のウィーン式フォルテピアノ、そしてスタインウェイのD型コンサートグランド。だんだん体躯が大きくなっていって、最後は黒光りのピアノになる。メルニコフが作曲家とともにそれらを渡っていく。

 全体は幻想曲のプログラムで、これがまた冴えていた。J.S.バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」ニ短調 BWV903 はチェンバロ、C.P.E.バッハの嬰ヘ短調とモーツァルトのハ短調の幻想曲がアントン・ワルター・モデル、シューベルトの「さすらい人幻想曲」ハ長調はヨハン・ゲオルグ・グレーバーのフォルテピアノ、そしてスクリャービンの幻想曲ロ短調op.28とシュニトケの「即興とフーガ」がスタインウェイで、ひと連なりに弾き継がれていった。

 どの作品の演奏もそれぞれに聴き応えがあったし、プログラムを通じた変容の旅は生々しくスリリングだったが、なんといってもヨハン・ゲオルグ・グレーバーで聴く「さすらい人幻想曲」は格別だった。これだけの荒涼や寂寞がシューベルトの心象風景に吹きつけていたのだ、ということが、風や寒さの具体的な実感とともに迫ってきたのである。
 
 こういう演奏はやっぱり生で体感しないとな、と別のフォルテピアノで録音したCDを聴いたときに思ったのだけれど、あれから時間をおいて聴いてみると、これもまた鮮やかな演奏だ。コンサートのプログラムではシューベルトは始まりでなく、バッハ・ファミリーとモーツァルトから渡されて、後は20世紀に跳躍したので、そのことも聴き手の想像力には鋭敏に響いていたはずだ。アルバムのほうは全体にもっと短いタイム・スパンで、シューベルト以降をロマン派から近代までの傑作でまとめている。いずれも、時代思潮の転換点であるということだけではなく、メルニコフのシューベルトへの愛着はそれだけに深いということを反映してもいるのだろう。

 《東京・春・音楽祭》でのメルニコフ、ソロ・リサイタルのほうはイ長調D664とト長調D894の2つの名作ソナタの間に、3つのピアノ曲D946を置くプログラム構成。楽器上の表現は異なれど、シューベルトの精神と心のかたちをよく見据えたメルニコフ一流の演奏になるものと、ますます期待が高まってきた。
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