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ファンタジーの向かうほうへ-北村朋幹の「Real-Time」を聴いて

ファンタジーの向かうほうへ-北村朋幹の「Real-Time」を聴いて

北村朋幹がこの秋、自主リサイタルのシリーズをはじめた。新作CDのことを以前ここにも書いたけれど、リサイタルについてもやはり記しておきたい。■北村朋幹 ピアノ・リサイタル Real-Time vol.1 "aus der Ferne" ~ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第24番 嬰ヘ長調 op.78、ヤナーチェク:霧のなかで、ブラームス:8つのピアノ小品 op.76、シューマン:幻想曲 ハ長調 op.17 (2019年11月15日、ムジカーザ)
  • 青澤隆明
    2019.12.25
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 音楽は少なからず過去からきている。だが、いまにしか起こらない。しかし、そのいまは留まることがない。刻々と過ぎて行く。音楽が過ぎるのとともに、ぼくたちも過ぎて行く。
 もしそうなら、ぼくたちはまさにそのあとを、どうにかして生きてきたことになる。その痕跡を辿ろうとしても、もつれた時の糸に足をすくわれるばかりだ。
 
 だが、北村朋幹も書いていたように、「演奏するということはつまり、過去を旅しながら未来を作ることなのかもしれません」。そういう演奏を聴くときには、ぼくたち聴き手も過去をたどるように思いながら、じつはいつも少しだけ先まわりしているのではないか。
 こんなふうにも思う。いまという捉えがたい現時点から、過去であれ未来であれ、その延長にあるなにかを想像し、思いや考えを重ねること。その距離と深さこそが、じつはいまという時間を下支えしているのではないか。いまの質を大きく変えるのではないか。どちらにしても、いまというときなくしては、いや、いまのなかにしか過去も未来も存在し得ない。

 さて、北村朋幹が自身のリサイタル・シリーズをはじめるのに「Real-Time」という言葉をかかげたのは、作曲家と作品との対話、演奏のモーメント、聴取を含めた共時性を、おそらくそのようにして名ざすしかなかったからだと思う。ムジカーザという空間の醸し出す親近感ある雰囲気のなかで、いろいろなことに惑わされずにピアノを弾いて、できるかぎり内密で自由に音楽の瞬間を生きることから、まさにいま生まれ出てくる未来のほうへと、耳を澄ませていくように。それこそが音楽という現在であり、ほんとうの時間なのだろう。

 美しいプログラムだった。ベートーヴェンのソナタ 嬰ヘ長調 op.78、ヤナーチェクの「霧のなかで」、ブラームスの「8つのピアノ小品」op.76、そしてシューマンの「幻想曲」ハ長調 op.17という内密な旅である。
 ベートーヴェンの嬰ヘ長調から、シューマンのハ長調へ。そのあいだに、ヤナーチェクの濃い霧と、ブラームスの嬰ヘ短調からハ長調への推移を経て。遠く隔てられた調性がもつ距離をわたって、かえって親密な響き合いをかなえることを、若き音楽家はロマン主義的に夢みていたのだろう。
 プログラムが進むにつれ、曲ごとの響きを描き分けながら、弾き手の感情も心境もしだいに自由と即興のほうへと導かれていく。ヤナーチェクの情感のつよさと、ブラームスのいまだ定位をもたない揺らめきが、それを大きくひらいていくのが、まざまざと聴きとれた。

 そうして、シューマンのファンタジーがやってくる。弾き手も聴き手も、すでに曲の道行きは知っている。その行きかたを歩くさなかに忘れるようにして、そのときどきに自分の嗅覚で道をみつけながら進む生きた感興をひらくことはできるのだろうか。地図はよくよくみてきたものの、山の天気は変わりやすく、あるいは波のかたちも質も違う、というふうに。
 このときのファンタジーは、まさに生起する音楽の瞬間を生きるように、もともとある舗道や、自分の足でこれまで踏み固めてきた道をなぞるのではなく、率直な心で、目の前からひらかれていくことに集中し、一歩一歩を曲の感情に沿って踏みだすように弾かれていった。
 楽譜に書かれたこと、そこから読みとったことを音として生きるのだから、決めごとはたくさんあるが、それをどのように充たしていくかは、そのときになってみないとわからない。この演奏を聴くうちに、新しく探りあてながら音楽を生きていくことの感動が、密やかな喜びとともに脈打つように伝わってきた。
 よくできた演奏なのかどうかはおいて、よく生きられた演奏だということは、はっきりとわかる。というより、聴き手として、そういうふうにそのときを生きていた、という確かな実感があった。
 
 個人的なことを打ち明けると、ぼくは聴き進むうちに、ラドゥ・ルプーがピエール・ブーレーズ・ザールで弾いた、シューマンのファンタジーを思い出していた。その特別な演奏の記憶が自然に重なってきて、ちょっと胸がいっぱいになった。
 2017年6月2日、ベルリンの夜のことだ。あの夜のルプーは、音楽が起こるにまかせるように、親密な純粋さを手がかりに、その曲を無心に弾いていった。いままでたどってきた道、そのどれもが遠ざかり、いま目のまえに自ずとひらかれていこうとする光景だけがそのとき、彼にとって真実の方向であったに違いない。

 そのときの気持ちは、ぼくにはとても大切なもので、だからそのことをこの日、北村朋幹のピアノを聴くうちに思い出していたとしても、誰にも失礼なことにはならないと思う。湧き起こる感興に率直で、心から誠実な音楽のありようだった。演奏とはこういうことなのではないか、というところを切実に求めつつ、自分自身にも正直な、音楽の澄んだ表れだった。
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