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まだ若い「第九」-堀米ゆず子と児玉桃の「クロイツェル」
堀米ゆず子 (vn)&児玉桃 (pf) デュオ・リサイタル (2020年10月19日、横浜みなとみらいホール)
先の週末にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ10曲をまとめて聴いていたとき、近い実演で思い出したのは、今年10月19日にみなとみらいホールで聴いた堀米ゆず子と児玉桃のデュオのこと。第4番イ短調op.23と第5番ヘ長調op.24のカップリング、そして第9番イ長調op.47というプログラムで、かなりずっしりしているうえに、マチネだった。ということは、まだ眠たいとしても、起きて最初に聴く音楽が生演奏のベートーヴェン、という状況がつくりやすい。ぼくにはちょっと手ごわい気もするけれど、それはそれで楽しみだった。
プログラム前半のペア、イ短調op.23とヘ長調op.24のコントラストをきちんと描き出すのもそうだし、後半の《クロイツェル》とは作品内容がだいぶ異なるからそれもたいへんだけれど、ページを捲るごとに興味がつのるような、聴きごたえのあるコンサートになった。《クロイツェル》第2楽章の変奏曲など、ほんとうに場面ごとに次々に想起する感興があって、わくわくしながら聴いた。こう言ってよければ、デュオとしての初々しさが保たれていて、瞬間ごとに真剣だし、よい緊張感があった。演奏生活40周年のベテラン・ヴァイオリニストが、こうして豊かな歳月を歩まれているのが頼もしく思えたし、ピアニストとの対話も新鮮さが保たれて、なにが起こるかわからない愉しみがあった。
作品番号から想像すると年代がイメージしやすいけれど、ヴァイオリン・ソナタ史上の傑作として名高い《クロイツェル》op.47だって、ピアノ・ソナタで言うなら《ワルトシュタイン》op.53の少し前なのである。ベートーヴェンもまだ30代前半。未来がたくさんある人にして、なおのこと未来を次々と拓いていく感じが漲っている。
堀米ゆず子と児玉桃はお互いに発見し合うようにデュオの道行きを歩むから、聴き手はそれに自然に連れられて、次々と現れる光景や情感に新鮮な気持ちで出会っていくことができた。いろいろと事前に決め込んで臨むのとは違って、刻々と見つけ出して進む緊張感が広がっていた。まさにライヴの醍醐味である。弾くのも楽々とはいかない曲だろうから、なおさらスリリングで、局面ごとにいきいきとしてみえた。いまこうして思い出していても楽しいから、それだけいいコンサートだったのだと思う。昼の陽気はいっぱい感じたけれど、もちろん眠気なんてどこにもやってくる余地はなかった。
プログラム前半のペア、イ短調op.23とヘ長調op.24のコントラストをきちんと描き出すのもそうだし、後半の《クロイツェル》とは作品内容がだいぶ異なるからそれもたいへんだけれど、ページを捲るごとに興味がつのるような、聴きごたえのあるコンサートになった。《クロイツェル》第2楽章の変奏曲など、ほんとうに場面ごとに次々に想起する感興があって、わくわくしながら聴いた。こう言ってよければ、デュオとしての初々しさが保たれていて、瞬間ごとに真剣だし、よい緊張感があった。演奏生活40周年のベテラン・ヴァイオリニストが、こうして豊かな歳月を歩まれているのが頼もしく思えたし、ピアニストとの対話も新鮮さが保たれて、なにが起こるかわからない愉しみがあった。
作品番号から想像すると年代がイメージしやすいけれど、ヴァイオリン・ソナタ史上の傑作として名高い《クロイツェル》op.47だって、ピアノ・ソナタで言うなら《ワルトシュタイン》op.53の少し前なのである。ベートーヴェンもまだ30代前半。未来がたくさんある人にして、なおのこと未来を次々と拓いていく感じが漲っている。
堀米ゆず子と児玉桃はお互いに発見し合うようにデュオの道行きを歩むから、聴き手はそれに自然に連れられて、次々と現れる光景や情感に新鮮な気持ちで出会っていくことができた。いろいろと事前に決め込んで臨むのとは違って、刻々と見つけ出して進む緊張感が広がっていた。まさにライヴの醍醐味である。弾くのも楽々とはいかない曲だろうから、なおさらスリリングで、局面ごとにいきいきとしてみえた。いまこうして思い出していても楽しいから、それだけいいコンサートだったのだと思う。昼の陽気はいっぱい感じたけれど、もちろん眠気なんてどこにもやってくる余地はなかった。
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