男ふたりの「第九」-清水和音と迫昭嘉、歓喜の再会に寄せて

男ふたりの「第九」-清水和音と迫昭嘉、歓喜の再会に寄せて

清水和音と迫昭嘉、2台ピアノで「第九」を謳う。(2022年12月10日、東京オペラシティ コンサートホール)
  • 青澤隆明
    2022.12.28
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 コンサートの聴き納めは、今年は「第九」にしたのだけれど、じつは二週間ほど前にも、早々と「第九」を聴いてしまった。するとどういうわけか、もう歳末の気分になってきた。それは昭和の日本人としてのぼくの習慣でもあるかもしれないが、曲のほうになにか逸る気持ちがあることもまた確かだ。

 それは合唱のない「第九」だった。独唱もなければ、オーケストラも指揮者もいない。そう、二台ピアノの「第九」である。リストが編曲した版をつかって、迫昭嘉と清水和音が二台のピアノで向き合った。

 1995年に最初に手合わせしてから、昨年ひさしぶりの再会を果たし、そのときの好感触が東京での開催に繋がったのだと両雄は言っていた。ほとんど20年近い歳月を経て、大人どうしが改めて熱く向き合い、ベートーヴェンへの深まる敬愛とともに、「第九」の核心をピアノで実現する。「合唱がなくても『第九』だ」と迫も話していたとおり、ピアノ音楽として、筋の通った世界が広がっていった。紛れもないベートーヴェンが、その芯にどっしりと座っているのだ。

 迫昭嘉が第一ピアノ、清水和音は第二ピアノを担ったが、これはむかしからずっとそのまま。清水和音の低音の重厚な存在感が利いてくるが、第1楽章から凄絶な轟音を打ち出して、フィナーレまでもつのか心配になるほどだ。杞憂だった。そして、迫昭嘉がずっと大切にしているベートーヴェンならではの歌心が、「第九」を伸びやかにピアノで歌わせていく。迫と清水の歌いかけや表現の志向はおなじ作品をみていても趣が違うが、それぞれのベートーヴェン像が共存しつつ、うまく重なり合うのが名手どうしで聴く愉しみである。

 予想されたことはいえ、ひときわ素晴らしいのは第3楽章のカンタービレだった。もちろんオーケストラ原曲でも絶品だが、ここではピアノ・ソナタにも通じるベートーヴェン後期の美の世界として高らかに響いた。いっぽう、この前後のスケルツォやフィナーレに漲るエネルギーと律動感も圧巻で、つまりピアニストは始終弾きっぱなしの重労働を課される。ベートーヴェンがオーケストラに全身全霊で要求するエネルギーを、たったふたりきりで叶えるのだから、それはそれはたいへんに決まっているが、その演奏の労という荷重がまた曲の持続する意志にも重なってくる。

 そして、フィナーレである。四重唱の音楽がこれほどざわざわせずに、ぴたっと美しく調和をみせるのは、二台のピアノで、ふたりの名手が心を合わせるからこそ。トルコ行進曲も含めた雑多な喜びに関しては、ずっとスタイリッシュに澄んでくるけれど、「第九」はどこまで行っても「第九」だった。二台のピアノのアンサンブルを合わせるのはとても難しいに違いないが、それだけにもう、ふたりきりで十分にシンフォニーである。Freude!!
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