ひとりきりのカノン -山下達郎の「クリスマス・イブ」

ひとりきりのカノン -山下達郎の「クリスマス・イブ」

街角には「クリスマス・イブ」。バロックから現代へ。パッヘルベルから山下達郎へ。 ◎CD「Melodies / Tatsuro Yamashita」(Moon Records, Warner Music,1983)
  • 青澤隆明
    2019.12.24
  • お気に入り
 ひとりきりも、クリスマス・イヴも、ぼくにはそう特別なことには思えない。
 きっと、多くの人にとってもそうなのだろう。だからこそ、山下達郎のあの曲が、これほどまで広く愛されているのだと思う。いや、ひとりきりは特別ではないけれど、クリスマス・イヴはやっぱり特別な日だから、そういうことになってくるのか。そこのところは、ちょっとよくわからない。

 山下達郎の「クリスマス・イブ」は、聴けばすぐにわかるように、パッヘルベルのカノンを下敷きにして書かれている。おそらくバロックふうの和声だから、どこか自然とクリスマスのイメージを引き寄せたということだったのではないか。
 山下達郎が後年のアルバム・タイトルで「アルチザン」と掲げたことを思い重ねると、ここにもまさしくバロック時代の音楽家の矜持や気骨、方法にも親しいものが感じられてくる。自分は、アーティストではなく、アルチザン(職人)の魂で仕事をしたいのだ。そんなことを、『ARTISAN』のアルバム・リリースのときには、本人が大いに語っていた記憶がある。そのアルバムに収められた「ターナーの汽罐車-Turner's Steamroller-」という曲は、いまでもぼくのお気に入りだ。

 「クリスマス・イブ」はもともと『Melodies』という1983年発表の、ムーン・レコーズに移籍して最初のアルバムの最後にひっそりと美しく収められた1曲だ。アルバムは初夏、限定版のシングルでカットされたのはその年の12月14日だった。「クリスマス・エクスプレス」とか、そんな感じのJR東海のコマーシャルで広まるのは後のことで、つまりはタイアップの達人であるソングライターが、それを期せずして書いていた名曲ということになる。どちらかというと、ぼくはそういうほうが好きだ。曲が先まわりしているほうがいい。それにしても、かのポップ職人がここで、カノンにクリスマスを引き寄せたのはさすがである。それも、王道の「Silent night, holly night」を重ねて口ずさんでみせるのだから。

 とはいえ、この曲が長生きしたのは、そういうシーズンやテーマのことだけではなくて、リリックもアレンジも歌も、なにもかもが絶妙のバランスで仕上げられているからだろう。イメージの源泉であるパッヘルベルのカノンは、最初のコーラスをおえて、間奏でのひとりハミングのハーモニーのさきに、山下達郎得意のひとりアカペラの多重録音でスパークする。このパートは、まさにクリスマスのイリュミネーションとか雪の舞い散るさまとかシャンパンの泡とか、そういうきらめきと輝きと、どこかしらの儚さを放っていて、ほんとうにきれいだ。そして、その光はすべて、一瞬の夢のように去っていくのである。
 こういうのを、引用の極みというべきなのではないか。山下達郎のポップな魔法は、原曲の優雅な悠長さを、輝いたとたんに消え去っていく瞬間の切なさに鮮やかに変えている。彼の曲とサウンドの特徴として、前進する力強さを一貫して保っていることが挙げられるし、そこがまさにロックなのだが、この歌も前へ前へと否応なく駆り立てられるように進んでいく。そのなかにあって、パッヘルベルのカノンが挿入されるくだりは、ちょうど車窓からみる星空のような感じになる。
 ほんとうのことを言えば、原曲をバロックの演奏で聴くよりも、この曲のまんなかでわずかにきらめくのを聴いたほうが、ぼくにはずっと美しく心に響く。カノンはぼくがこどものころ、こちらは多感な年代に聴いたから、ということもどこか関係しているかもしれないけれど。

 さて、山下達郎の綿密な仕事について、ぼくなどがいまさらとやかく言う必要はたぶんまったくないのだが、それでもこの曲の詞の見事さについては、誰がどう称えても言い過ぎにはならないだろう。さきほどのアカペラのカノンのきらめきのあと、曲が本線に戻るときにやってくる言葉は、「まだ消え残る 君への想い 夜へと降り続く」なのである。ほんとに、もう。

 この曲の歌詞は、とてもシンプルで音数も、口数も少ないが、それがほんとうにいい。さっきぼくは、きらめき、とか、かがやき、という言葉をつかったし、きらきらした感じと言い換えてもいいが、これらの言葉の音感に光を与えているのは、音素材からいえば、か行とい段、つまりKの子音とIの母音である。このきらめきがきわまるのは、メロディーが最初にくり返されるところ、つまり「きっと君は来ない ひとりきりのクリスマス・イブ」だ。

 いちど聞いたら、誰でも忘れられないラインは、つまり「き、き、こ、い」に、「ひ(と)りきり」に、「クリスマス・イブ」という絶妙のコンビネーションとリズムで構成されている。クリスマス・イブというのは日本語の音では「ういぅあぅ・いぅ」だから、「ひとりきりの」すなわち「いおいいいお」と、反復の感じがよく合っている。さらっと、こうしたことをしてしまうのは、つくり手が素晴らしく音楽的な耳をもった人であることの証である。つまり、天才的な仕事だ。

 「クリスマス・イブ」のリリックは、わかりやすく一人称で書かれているけれど、カノンという音楽のかたちがどういうものかをいまいちど思い出しておくと、おんなじ旋律を追いかけるようにべつべつの場所から歌い合わせるというもので、かんたんに言えば輪唱に近い。有名なパッヘルベルのカノンはまさに輪唱で、3つの声部が追っかけるように歌われて、最後は切りそろえられる声部があるものの、そのシンプルなかたちをとっている。

 ここで、なにが言いたいかというと、山下達郎の歌詞の語り手は一人称である。Silent night, holly nightが街の情景なのか、主人公の心のなかに響くものなのかはおいても。そして、山下達郎のひとりアカペラ多重唱は、もちろん彼ひとりの複数の声によって編まれたものだ。つまりこの曲は、文字どおり、「ひとりきりのカノン」なのである。そして、それを口ずさむひとりひとりの心のなかでくり返される、いわば「孤独のカノン」でもある。だけど、だけど、それを何千人、何万人という人が輪唱することで、この一人称のカノンは、みんなの「クリスマス・イブ」になっているのである。すごいなあ、と思う。これ、無限カノンじゃないか、と。

 きっと君はこないから、ひとりきりのカノンは、季節柄この日もまた、日本中を巡っている。
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