花火 に - ストラヴィンスキーとドビュッシー

花火 に - ストラヴィンスキーとドビュッシー

季節のうた、夏。花火。ストラヴィンスキーとドビュッシー。
  • 青澤隆明
    2021.08.29
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 さて、花火といえば、やはりストラヴィンスキーとドビュッシーだ。ストラヴィンスキーの着想については知らないが、ドビュッシーは聴いてのとおりフランスの革命記念日の連想だろう。

 ストラヴィンスキーのほうが早かった。オーケストラ曲とピアノ独奏曲ではあるが、影響もあっただろうか。ストラヴィンスキーは初期作、1908年から09年にかけての作曲でop.3。ドビュッシーは1911年から13年にかけて作曲された『前奏曲 第2巻』を結ぶ第12曲である。

 なにより、ふたりは「親友」だった。ディアギレフの最大の貢献のひとつは、ドビュッシーとストラヴィンスキーを親しく結びつけたことではなかったか。

 「フランスの音楽家」というクロード・ドビュッシーの名高い自称は、イーゴリ・ストラヴィンスキーに宛てた手紙のなかにいち早くみられる。

 さらに、ドビュッシーが『練習曲集』を完成した1915年、戦争の年にストラヴィンスキーに書き送ったのは「全力を挙げて、ロシアの偉大な芸術家であってください」という言葉だった。「自分の国があるということ、慎ましい農夫のように自分の土地にしがみついているというそのことは、たいへんに素晴らしいことなのです」と。

 近代のフランスとロシアは文化的にはけっこう親近感や交流があって、そこにはドイツへの対抗心というのも大きく作用したに違いない。そして、パリは少なくとも近代から戦間期にかけては、西欧や欧米の芸術に主導的な中心の役割を果たしていた。しかし、時代が時代ということ、フランスとロシア、それとドイツの緊張関係をおいても、この言葉は音楽や芸術に関して、とても大切なことを語っていると思う。

 いまもクラシック音楽は西欧のローカル・ミュージックだというのが、ぼくの基本的なスタンスだ。南北アメリカやアジア、アフリカはどうなんだと言われても、西欧の美学との緊張や葛藤なくしてはこの分野での傑作は書かれ得ないだろうし、使っている楽器からしても、システムの縛りは絶大のものにみえる。
 
 ぼくはちっともナショナリストではないが、それでもワールドカップやユーロなどの国際大会においては、自国リーグの選手たちが中心に活躍するチームを応援してきた。そうでないと面白くないのだ。こどもの頃からそうで、もちろん当時は意識こそしていなかったけれど、ここ40年の時代の変化に沿いつつも、それはずっと変わっていない。クロアチア代表を除いては。

 そして、ドビュッシーが晩年になってもなおストラヴィンスキーを讃えた「現代最高のオーケストラ・マシーン」という言葉は、かのロシアの偉才にリムスキー=コルサコフに学んだ基礎があってこそのものだったろう。ストラヴィンスキーはかの師を慕い、若き日に多くのことを学んだ。ディアギレフが若き日に音楽を学んだのも、リムスキー=コルサコフのもとでだった。
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