最後のマズルカ - チャトウィンとショパン

最後のマズルカ - チャトウィンとショパン

あなたと本と音楽と。-- Bruce Chatwin “In Patagonia” ブルース・チャトウィン『パタゴニア』~ ショパン:マズルカ ヘ短調 op.68-4 ~ Peter Jablonski "Mazurkas" (altara) ぺーテル・ヤブロンスキー『マズルカ』
  • 青澤隆明
    2020.05.12
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 その演奏は驚くべきものだった。こんな南の果てで、これほど素晴らしい『悲愴』を聴けるとは思いもよらなかった。弾き終わると彼は言った、「ではショパンを弾きます、よろしいですか?」 そしてピアノの上に置いていたベートーヴェンの胸像をショパンのものに取りかえた。「ワルツとマズルカ、どちらがお望みでしょう?」
「マズルカを」
「私がいちばん好きな曲を弾きましょう。ショパンの手になる最後の作品です」
 そうして彼は、ショパンが死の床で書き取らせたマズルカを弾いた。風が通りでひゅうひゅうと鳴り、墓石に舞う葉のように音楽がピアノからぼうっと立ち現れて、自分が天才の目の前にいるように感じられた。 - Bruce Chatwin “In Patagonia”

 それは、アルゼンチン北部のガイマンで、血の気のない神経質な少年ピアニストが弾いたショパンであった。ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』のなかに出てくるエピソードだ。久しぶりに読んで、マズルカを聴きたくなった。

 ショパンの絶筆と長らく言われてきたのはヘ短調のマズルカで、自筆譜の乱れからそのように語られてきた。フォンタナが唱えていたのが大きいが、フランコムは死の直前、ショパンの姉ルドヴィカは1848年の作と記していて、ほかにも1846年の作曲とする説がある。いずれ健康状態が悪化した晩年の作となろうが、死の床で書き取らせた(dictated on his deathbed)という臨終の記述は、ショパンの形見となった自筆スケッチと話が合わない。

 しかし、こういうことを言いはじめると話は途端につまらなくなるし、ブルース・チャトウィンなら仮にすべてをふまえていても、やはり上のように書いたに違いない。小説家はより良い小説を書くだけだ。いずれにしても、変わらないのは、ショパンのその曲の孤独な寂寥感である。

 こういうときは、下手でも自分の手で触れるのがいちばんいいのだが、ちょうどこのところまた聴きたいと思っていたCDに入っていたな、ということでぺーテル・ヤブロンスキーの演奏をかけた。こちらはまったく南ではなく、北欧はスウェーデン生まれのピアニストの、2006年冬、ロンドンでの録音。マズルカというとぼくがまっさきに思い出す、水際立ったアルバムのひとつだ。
 
 タイトルどおりマズルカばかりを集めた1枚だが、ショパンだけではなく、そこからシマノフスキ、マチエフスキへと時代を下る旅となっている。父方にポーランドのルーツをもつヤブロンスキーらしい目配りとも言えるだろう。ショパンは4集15曲が弾き継がれ、ポーランド外での初出版となった初期作op.6から、遺作を集めたop.68までを辿っていく。ちなみに、ヤブロンスキーはこのマズルカop.68-4をショパンの最後作、作曲家の死の2、3週間前の作品と記している。

 マズルカこそはショパンの内心と言えるが、これは若くして颯爽と世に出たヤブロンスキーが成熟と寂寥を帯びた40代半ばに臨んで、心を籠めて密やかに演奏したアルバムである。ショパンの純度と高潔さが、内省、抒情と幻想をもって、深く真率に捉えられた名盤だとぼくは思う。
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