距離と密度、今夏の実験 - フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020を聴いて (1)

距離と密度、今夏の実験 - フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020を聴いて (1)

《フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020》で繰り広げられた、制限されたなかでの多様性。ミューザ川崎シンフォニーホールにて。
  • 青澤隆明
    2020.08.22
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 暑い暑いとため息をついているうちにも、暦は進んでいるようで、気がつくと8月も下旬に入ろうとしている。この夏のコンサートを思い出すとき、《フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2020》がさまざまな知恵を絞って敢行されたことはやはり筆頭にくるだろう。それももはやひと月も経った出来事ではあるが、いつもミューザ川崎に行くときに車窓から眺める多摩川べりの景色とともに、それは音楽だけでなく映像としてもよく思い出される。

 今年のサマーミューザは、600席の購入に絞って観客を入れたコンサート上演と、ライヴ配信のちアーカイブ配信による「ハイブリッド形式」での開催。川を越えなくても、様子はわかる仕組みだ。関係と出演の各位をはじめ、催しを支えた多くの方々にまずは拍手と敬意を贈るべきだろう。

 ぼくが聴いたのは、全17公演のうち6つのオーケストラ・コンサートで、順に東京交響楽団、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏会。楽器編成上の制約もあってだろう、記念年のベートーヴェンが厚くラインナップされ、フェスタ全体としては交響曲第1番から第8番までのチクルスと、ピアノ協奏曲の第1、4、5番、ヴァイオリン協奏曲、三重協奏曲に、悲愴ソナタまで聴けるというプログラム。これをベースに、オーケストラそれぞれに、現状のなかでさまざまな工夫を凝らした選曲構成で、腕を揮い、個性を競ったかたちになる。

 結果として、オーケストラの志向や性格、技量や適性などもさまざまに浮き上がってくるのは毎年のことだが、小編成を余儀なくされることをはじめ、選曲上の物理的制限が多く、苦肉の策とも言えるようななかで、それでもそれぞれの切り口を示していた、もしくは自ずと表れ出ていたことが興味深かった。
 
 ひとまず個々の演奏内容はおいて、コンサート自体の成立要件となってくるのが、件の「ソーシャル・ディスタンシング」という課題である。ふだんクラシックで扱われるレパートリーの大半は、密集を前提として育まれてきたものだし、オーケストラの演奏文化というのも、まさしくそうした文明様式の象徴である。濃密さが肝というか、ことによったら、いちばんの身上といっても差し支えないと思う。まずは、人が集まることで、しかも公会堂的空間のなかで交わされてきたのが、オーケストラの言葉であり言論なのである。少なくとも従来はおおかたそうしたものとして続けられてきた。

 新型コロナウイルスの感染症拡大防止対策のために、各種業界団体ごとのガイドラインがそれぞれ提案されている。結局のところ、みえないだけでなく未だよくわからない対象への防御策ということに加えて、社会的な情況も変動するし、そもそも演奏会を成立させる環境自体が、編成や会場のサイズによっても多種多様であるから、一律にどうということは言えない。ガイドラインというものは、個別のケースに即して適応されるべき参照点で、固有の事情や流動性を抽出しつくしてはいない。ふだんの生活上ですら、マスク着用時とそうでないときの距離感というのが混同されているようにみえるような状況だ。必要として求められている間隔もあくまでも目安でしかなく、絶対的な安全性を保障するものではない。しかし、そもそも絶対的な安全というものが、いったいこの不安定な世界にあるものだろうか。

 しかも、無発症や未発症の感染者をどうみるかということも含めて、安全に公演が遂行されたということすらどうしたって追いきれないうえ、最終的には結果論としてしか成否を捉えられないという側面が大きい。悩ましいというより、みえない相手を怖れるままに、注意がべつな方面に紛れがちになる。

 だから、オーケストラもそれぞれに自身と聴衆を自衛すべく、各自の方法を、様子をみながら模索している。そのさなかの、わりと早い段階にこの夏のフェスタがめぐってきたということになる。「自衛」と言ったのは、もちろん衛生上の安全を第一として、音楽的に相応とみなせる演奏の質を確保できる条件、というのが実のところ演奏家にとっては生命線である。

 ただ演奏会を開催すればそれでいい、という営みそのものの意義を越えて、またそうした時期もいくらか過ぎたなかで、いまできるなかで最善に努める、という音楽家としての基本の姿勢を示さなければならない。とくにこうした首都圏とゲストの国内オーケストラを一堂に会させるフェスティヴァルの趣旨からして、それぞれの力量と知恵がより明瞭に可視化されるところでもある。なにごともバランスであり、それはもちろん音楽だけでなくさまざまな物事の成立要件でもあるということだ。

 制限のなかで、いろいろ考え出すことはいつだって必要なことだが、昨今の状況を逆手にとって新たな着想を実践するとなると、この分野にはとかく難点も多い。配信という方法論も続々と試行されてきているが、それ以前に、そうした物理的制限は、舞台上での一体的表現ということからしてオーケストラ演奏芸術の根幹に関わることだからである。

 もちろん、衛生的な検証や科学的な測定を経てきたオーケストラもあり、そこまで大がかりではなくてもそれぞれに実験や配慮はなされているはずだ。しかし、それだって一律の環境条件では測れないし、舞台上の編成、観客の有無、数、会場の規模、空調の流れ、気温と湿度など、さまざまな変化を考慮しつくすまでにはいたらないだろう。そこには当然、プレイヤーや組織の考えかたというものも反映される。

 それよりもなによりも、なにをもって作品に相応しい自分たちの音楽性を保てると判断するか、ということについては、オーケストラの技量と水準、自己基準とプライドをめぐるぎりぎりの判断になってくるものと推察される。そこには当然、プレイヤーや組織の考えかたが反映されるし、楽団としての性格や気質が自ずと表れて、ます多様性を帯びてくる。その実践のありようについてはこの後に記すが、そうした模索が連日のように垣間みられたのも、今夏のフェスタサマーミューザのもつ特別な趣であった。(つづく)
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