レオン・フライシャーが唱える魔法の言葉

レオン・フライシャーが唱える魔法の言葉

CD◎ レオン・フライシャー(pf) 「Two Hands」(Vanguard Classics / Sony Classical)
  • 青澤隆明
    2020.04.05
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 クララ・ハスキルの弾くモーツァルトを久しぶりに聴いていて、思い出したことのひとつに、レオン・フライシャーの記憶があった。レコーディングはイーゴリ・マルケヴィチ指揮コンセール・ラムルーとの共演で、ハスキルがニ短調協奏曲K.466を演奏したお馴染みのもの。彼女が弾くのはもちろん自作のカデンツァである。このカデンツァを聴くのも久しぶりのことだった。

 それで、なぜフライシャーかと言うと、10年ほどまえに彼がサントリーホールでモーツァルトのピアノ協奏曲のワークショップをひらいたことがあった。まる一週間かけて学生たちの指導を行い、最終日には自ら桐朋学園オーケストラを指揮して、若い3人のデビュー・ステージを叶えるというプロジェクトで、サントリーホールとカーネギーホールとの提携企画だ。そこで、ハスキルのカデンツァを弾いた若者がいて、フライシャーは微笑んだ。その顔を思い出して、フライシャーのピアノを聴きたくなってきた。モーツァルトのコンチェルトもいいのだけれど、まずはあの曲に手が伸びていた。

 それはバッハのコラール「羊は安らかに草を食み」で、エゴン・ペトリの編曲。レオン・フライシャーの豊かな音が、ここでは特別にまるく、清らかな光を溜めている。2009年に先のプロジェクトを終えたあとに武蔵野で行われたリサイタルでも演奏されて、特別の輝きを、ひっそりと放っていた曲だ。フライシャーの深々と温かい音に満たされて、その音楽は清らかな泉のように、無心に溢れてきた。

 バッハのこのコラールは、2004年のアルバム『Two Hands』のはじまりに置かれている。右手指のジストニアを克服して、両手でのレコーディングへの復帰を告げた作品である。マイラ・へス編の「主よ、人の望みの喜びよ」に続いて、この曲がしずかに響く。フライシャーは録音に触れて、バッハの2つのコラールは、自分にとっての一種のマントラと語っていた。呪文や祈り、まじない、魔法の言葉というのに近いか。「羊は安らかに草を食み」を、いまの時代に応えて、解毒剤のようなものとして演奏してきた、と彼は言った。フライシャーが唱えるその魔法の言葉に、ぼくもどれだけ洗われたかしれない。それも自浄作用のように、内側から溢れてくるようにして。こうして聴いているいまだってそうだ、これから先も、きっと。
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