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コンサートを聴くこと 。そして、それをまた聴くこと。- アンデルシェフスキ『アット・カーネギーホール』を幾たびも

コンサートを聴くこと 。そして、それをまた聴くこと。- アンデルシェフスキ『アット・カーネギーホール』を幾たびも

そのとき、そこにいたこと。いまそこではなくて、べつのどこかにいること。でも、たしかに生きていること。CD◎ピオトル・アンデルシェフスキ『アット・カーネギーホール』(Virgin / Warner)
  • 青澤隆明
    2020.03.19
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 アンデルシェフスキのソロ・デビュー盤は、1996年に録音された。バッハ、ベートーヴェン、ウェーベルンで、曲はそれぞれイギリス組曲第6番ニ短調、変イ長調ソナタop.110、変奏曲op.27だった。それから12年ほど後、2008年のカーネギーホールでのライヴ盤は、バッハのハ短調パルティータ、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」、ヤナーチェクの「霧のなかで」、ベートーヴェンのop.110という流れだ。アンコールに、バルトークの「チーク地方の3つのハンガリー民謡」。最後に輝くのは、澄みきって、ひときわ美しい歌と踊りである。すべてはさまざまに続いていく。明らかにおなじ人間がおなじ曲を演奏していても、ふたつはまったく違う生の流れになる。

 そして、ライヴ・レコーディングには独特の感興がある。コンサートとスタジオ・レコーディングは別の表現分野とも考えられるが、そのはざまで、ライヴ・レコーディングはドキュメントとしての性格を自ずと備え、とくに生き生きとした音楽体験がとらえられていれば、聴いてそこに立ち会えるような臨場感を帯びる特別な魅力を伝えてくる。

 そもそもコンサートという出来事は、その場所に集まるすべての個々人の体験の集合体である。そのなかで音楽は瞬間瞬間に生起し、変容していく。聴き手それぞれの現在には、それこそさまざまな時間が関わっている。それらがおなじ音楽の時間をそこで生きているという、ただそれだけのことで結びつき、そのときどきのかたちでコンサートを成立させる。新型コロナウイルス感染拡大防止の号令を受け、コンサートの開催が困難とされるいま、その体験の貴重さがいっそう強く感じられる。

 アンデルシェフスキのカーネギーホール・ライヴの話だった。そのとき、ぼくはそこにいた。2008年12月3日という日付は、ニューヨークの冬の夜の記憶とともに、くっきりとぼくのなかに刻まれている。音楽のほうは、大半がディスクに刻まれている。失われているものもあれば、はっきりみえてくるものもある。そのようにして、ぼくはときどきこの作品を聴きかえしてきた。

 そしていま、ニューヨークからはほど遠い、べつの場所、自分の家でそれをゆっくり聴いている。幸いなるかな。12年近い歳月がめぐってなお、ぼくは変わらずにそれを聴いている。けれど、ぼくのほうが変わっているのかどうかはわからない。ベートーヴェンとはまったく違って、いつまでもおなじところを、ぐるぐるとまわっていただけのような気がする。それでも、このライヴ・レコーディングを聴くうちにも、いまとあのときは重なって、また新しいべつの時間になっていく。

 とくに自分がそのコンサートに立ち会っていたという感慨があればなおさらのことだが、そこで交わされた音楽の時間は、聴きかえすたびに幾重にも重層化される。にわかに静かになった街に息をひそめて、12年まえのライヴ・レコーディングを聴いているさなかにも。そして、音楽のなかでは、ぼくたちはきっとあの頃よりも自由だ。
 
 ベートーヴェンが生きていれば、また新しい曲を書いて、ぼくたちを驚かそうとするだろう。いつか近い日に、それを誰かが弾いて、またべつの誰かがそれぞれにそれを聴きに行くだろう。ハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、物事にはいつも続きがあって、結局のところそれはたぶん終わりではない。いつのまにか、いつも、始まっている。

 つづく。
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