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映画のように すぐには終らない - 服部隆之コンサートで思ったこと

映画のように すぐには終らない - 服部隆之コンサートで思ったこと

コンサートごとにちがった聴衆が集まってくる。それはけっこう面白いことで、まったく違う店にはいってみたら、まったく知らないひとやふだんは話をしない人と出会った、ということにも近い。もちろん、コンサートだから、べつに隣のひとに話しかけたりもしないし、休憩時間にロビーでそのへんのひととも話さない。だけど、そこにはたいてい、ぼくよりもつよい思いをもった人がたくさんいる。あまり自分勝手が出てはいけないけれど、それはどうあれ、尊敬すべきことではないかとも思う。2020年2月24日に、「服部隆之コンサート」を聴きにいって、改めて思ったこと。
  • 青澤隆明
    2020.02.26
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 「映画のように すぐには終らない」と忌野清志郎が歌っていた。「サラリーマン」という歌で、彼自身が出演するテレビドラマから聞こえてきた。

 ぼくはドラマというより忌野清志郎がみたくて、テレビをつけた。それで、この歌をきいて、はっとした。きっとみんなにはあたりまえのことだろう。でも、映画は好きで、ドラマをみなれないぼくには、大げさにいうとそれはひとつの発見でもあった。ずいぶんとまえの話だけれど、そのときも、ふつうにヒット曲を聴いたり、スポーツを観ていたりすれば、それはそうだ、というような当然のことだとも思った。

 さて、「服部隆之コンサート」を会場で聴きながら、そういうわけでぼくは半分くらいエイリアンだった。アウェイのスタジアムで、知らない選手のチャントを聴くようなところがないとも言えないからだ。だからこそ、そこで、あらためて感じたこともある。

 音楽を聴くとき、ひとはふつう、その曲を聴いてきた経験をいっしょに追体験もしている。ヒット曲や名曲であったり、個人的な思い入れの深い曲であったりすればするほど、それぞれのストーリーの色を帯びる。 だから、ぼくの経験と、誰かの経験によって、その曲の色合いは変わる。たんに愛着というよりも、その曲とともに生きてきた時間や歳月がそこに自ずと加味される。これをあえて剥がすこともないし、またその必要なんてない。そのままで楽しめばいいだけだ。

 テレビドラマとなれば、映画のようには終わらずに、たとえば毎週何曜の何時からというできごとが、たっぷり3か月ほどの間続くだろう。つまり、それだけの時期を、そのドラマの、毎回の音楽とともに、生きてきたということになる。そのときに、人それぞれに、どのような心境を重ねていたのか、どのような環境にあったのかということも、そのドラマ体験にふつうに重なってくる。

 だから、音楽を聴くときには、どれだけ時間的、心理的な距離をおいて抽象化されていたとしても、その現体験的な時間と感情はどこかに残っている。もう何度かわからないくらい聴いている個人的なヒット曲にも、そうしたいろいろなときと体験が溶け込んでいるに違いない。そのとき、だれといたか、とか、どんなことをしていたか、とか、なにに悩んだり、つまずいていたりしたか、ということが、そのままその曲とともに生きた時間に混ざり込んでいる。

 そういうものを聴きに、人はコンサートに行くのだと思う。それは、ほんとうは、どんなコンサートでも起こっていることだ。音楽を聴くときに、曲の単体だけを聴いているわけではない。とくに今回のコンサートのように、こういうドラマの音楽の改めてオーケストラ仕立てで聴くときはそうだ。そうした聴きかたが音楽的ではないとかあるとかいう話ではなくて、そもそも体験というのはそういうものだろう。

 知っている曲をコンサートで聴いて、うれしくなるのは自然なことで、それだけで完結するわけにはぼくはいかないけれど、それだけでもやはり大きな体験なのだ。3か月、あるいは再放送、あるいは録画でくり返し反芻してきた、そのときどきの個人的な想いが、それぞれの曲やドラマを自分のなかで育てている。それはとても大切なことだと、ぼくは思うし、それぞれの体験は個人的な事柄であるからして、善し悪しや出来不出来では決して測れないものだろう。でも、どうせなら、そうした個々人の体験との調和にふさわしい魅力をもつ良質な曲がいいに決まっているし、それに耐え得る強かな音楽がこのコンサートにはあった。おそらく聴衆との間にも。
 
 でなければ、なんでわざわざオーケストラで、生演奏を聴くところまで出かけたりするだろう?
 
 それは最終回のあとあとまでも、それぞれに続いていくドラマなのである。
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