沸騰するプーランク―アレクサンドル・タローの影を追って(2)

沸騰するプーランク―アレクサンドル・タローの影を追って(2)

アレクサンドル・タローがこの秋にも来日し、まずはいかにも彼が好きそうなプーランクのピアノ協奏曲を演奏した。チェコ期待のトマーシュ・ネトピルが読売日本交響楽団を初めて指揮するプログラムの2日目を聴いた(2019年11月24日、東京芸術劇場)。
  • 青澤隆明
    2019.12.11
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 アレクサンドル・タローの新しいアルバム「ヴェルサイユ」を、なんども聴き返しているうちに、11月も中旬に入って、ピアニスト本人が日本にやってきた。

 タローの弾くコンチェルトは、昨春にエリアフ・インバル指揮東京都交響楽団の定期演奏会(2018年3月26日、サントリーホール)で、ショスタコーヴィチの第2番op.102を聴いたが、これが美しく透明で、また痛快な出来栄えでもあった。
 インバルのしっかりした懐も借りて、タローのピアノは澄んだ音で、感覚的な愉悦と宙づりのユーモアを遊んだ。ショスタコーヴィチが息子のために書いたピアノ協奏曲から、知的で端正な美しさとともに、彼のピアノが抽き出したのは、どこかラテン的とも言える感覚によって開かれた明朗さと光輝だった。

 さて、今回はプーランクである。タローがつよく愛するレパートリーに違いない。以前にも、ソロや室内楽作品の録音を手がけていた。ショスタコーヴィチでも光った知的な洗練が、ここではもっと洒脱にあらわれてくるのではないか、という期待をもつのは自然なことだろう。そして、この協奏曲は、プーランクが1949年に作曲し、年明けてミュンシュのボストン交響楽団と自身のピアノで初演した作品なのである。

 この日は、チェコ期待のトマーシュ・ネトピルが読売日本交響楽団を初めて指揮するプログラムの2日目(2019年11月24日、東京芸術劇場)。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』序曲と、プラハで初演されたニ長調交響曲K.504を前半に、後半はプーランクに、ヤナーチェクのシンフォニエッタを組んで20世紀を歩む流れである。
 結果から言えば、ネトピルの指揮がこの協奏曲をヤナーチェクの強烈な響きのほうではなく、モーツァルトの明快さのほうに向けてくれたら、いかにフランス的な色彩や明朗さに乏しくとも、もっと場面の展開も冴えて、作品の良さが活かされたのではないか。もちろん、プーランクが軽妙洒脱なだけの作曲家と言いたいわけではなくて、彼のシリアスな側面や劇的な激しさも踏まえたうえで、やはりそう思うのである。
 
 さて、アレクサンドル・タローがプーランクを弾き始めたとき、ぼくがちょっとびっくりしたのはその荒々しさ、粗削りともみえる武骨さ、もっと言えばワイルドな突き出しだった。豪快に大見えを切るようなピアノの始まりは、半音階的な動きを強調しつつ、オーケストラに埋もれがちな懸念を吹っ切っての打ち出しだろうが、それがどこか戦後の時代のざらついた空気を感じさせもした。
 もちろんタローらしい明快さ、微細な表情変化や移ろいもあったが、彼ならばこれよりも優美な表情や洗練にはこと欠かないはずだ。それよりも、もっと大胆な表出へと向かう熱量と激しさが、この曲の表現の強度によって鮮烈に引き出されたようだ。

 アンコールに弾かれたラモーの「未開人」も、その熱気を弾き継ぐように覇気を漲らせて、タローにしてはずいぶん雑なほど、突っ張った演奏にも聴こえた。もしかして、内的な衝動を強く打ち出すような感情表出のほうに、いまのタローは惹かれているのではないか。
 それは新作アルバム『ヴェルサイユ』を聴いてまず感じたことでもあったが、そのフラジャイルな繊細さが神経質な性格と結びついていた以前の演奏とは異なって、タローの感情表現の幅が大きく広がり、そうした精細さで統制された内心が、荒々しい自由に向かってその枠を打ち破られかかっているのかもしれない。そんなことを予感のように覚えた。

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