カルメンはエイミーじゃない。Ⅱ -新国立劇場 新制作オペラ『カルメン』をみて思ったこと(青澤隆明)

カルメンはエイミーじゃない。Ⅱ -新国立劇場 新制作オペラ『カルメン』をみて思ったこと(青澤隆明)

新国立劇場オペラ『カルメン』新制作 (2021年7月19日、新国立劇場 オペラパレス) の話の続き。
  • 青澤隆明
    2021.07.23
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 大会場でのロック・コンサートで歌われるハバネラだから、巨大スクリーンに歌い手の表情が生々しく映し出されもする。そのステレオタイプの場面にも顕著なように、アレックス・オリエの演出は現代の彩色をふんだんに施して、時代劇を今様に読み替えることで、カルメンや彼女を取り巻く人物たちを、なおのこと象徴的に扱うことになる。「ロマの女」というのが原作以来の運命と悲劇の象徴であったとすれば、それ自体はべつにおかしなことではないが、プロスペル・メリメのおおもとにはそうした民族的、文化的な由緒もわざわざ説かれていたはずではなかったか。もしかしたら、バルセロナ出身の演出家からしてみたら、カルメンの現代版はエイミーに自ずと重なったのかもしれない。でも、それは演じられた途端にたちまち無理となってしまう。少なくとも、自分やその運命を演じるのではなく、他者として演じられた時点で。

 アレックス・オリエの本演出は、鉄鋼剥き出しのセットを、牢獄や、スタジアム規模のロック・コンサートのステージなどのイメージに直接的にアダプトして、つまりは不自由な檻を象徴するものと見立てるのだけれど、とすればカルメンは自由の象徴ということになり、しかもそれもまた不自由の檻のなかに閉じ込められて逃れきれない。だが、結局のところ、カルメンの不自由は、自由であることを運命として意志に課すことの不自由さでしかない。ロックが自由を歌うステレオタイプのなかに自由を捨て去るのと同じことが、ここでも健気に逆説的に起こっている。しかし、エイミー・ワインハウスにしても、カルメンにしても待ち受けているものはやはり宿命的な死なのである。それぞれ運命と意志の問題がどこまで関わっていたにせよ。

 そのことをとうに知ってしまっている聴き手は、物語を先回りして、ヒロインたちの歌を聴く。けれど、ほんとうは生きているさなかにもその予感はあり、そのように一回きりの物語として劇を生きて行かないことには、いかに歌の力や演奏の迫力に煽られたとしても、やはり相応に胸に迫るものもなく、かわりにただ批評ばかりがなにかを囁くことにもなるのである。
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