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はじまりの遺書、―ヴァレリー・アファナシエフの『TESTAMENT』

はじまりの遺書、―ヴァレリー・アファナシエフの『TESTAMENT』

CD「テスタメント 私の愛する音楽 ~ハイドンからプロコフィエフへ~」ヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ) [SONY SICC 19034~9 (6枚組)]
  • 青澤隆明
    2019.11.27
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 ヴァレリー・アファナシエフが舞台に現れると、辺りがますます昏くなる。そんなふうに思わせるなにかの気配が、このピアニストには備わっていた。少年が早くから老成して、そのまま陰翳を深めたようなところが彼にはあった。

 しかし、そのアファナシエフが近年になって、重苦しさに潰されることのない、瑞々しい表情をその演奏にみせるようになった。ここへきて、より自由を謳歌しはじめたというふうにもみえる。

 その偉才が6枚組となる重量級の大作をまとめた。2017年の春と夏、それぞれ3日間で、1日に1枚ずつアルバムをレコーディングしていった。彼はまたその連作を『テスタメント』と呼ぶことにもとり憑かれていた。つまりは、この世界への告別ともなる、彼の最後の遺志だと言い、後世へ託す自分の人生の証言と語るのだった。

 もちろん、意を決しての一大プロジェクトではあっただろう。しかし、1枚目のハイドンから、驚かされるほどに、ゆったりとしたなかに、音楽の喜びが満ちている。瑞々しさと軽妙な明度、諦観や慈愛に通じるような深さが、どちらも感じとれる。

 初録音となったハイドンのソナタから、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンと得意の作曲家をめぐって、アファナシエフが本作のしめくくりに置いたのは、フランク、ビゼー、ドビュッシーを組んだフランス音楽の1枚と、プロコフィエフの第6番「戦争ソナタ」や『風刺』を含む1枚。言ってみれば、苦難の歳月を経て、再訪されたモスクワ時代の青春の譜とも言える選曲である。青年期に学んだロシア・ピアニズムの輝きがまざまざと生々しく、深められたノスタルジアとともにそこに残響しているかのようだ。

 そう言えば、現実の苦難、つまり耳の病に絶望したベートーヴェンがかつて認めたのが「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる書簡だった。出されることもなく、抽斗のなかにしまわれ、ベートーヴェンが自殺を図ったということもとくに伝えられてはいない。むしろ創造者として重大な決意を固める契機となったこの「遺書」のことを、アファナシエフはその実、つねづねどこかで夢みていたのではないか。
 70歳を超えたピアニストがまとめたこれらの「遺志」にはそう思わせるだけの生命力が宿り、楽観的な希望ではなくとも、彼が長く慣れ親しんだ絶望のさきに、なおもなにかを語ろうとしているようにみえる。
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