後にも先にも、祈りはある。-ブラッド・メルドー『アフター・バッハ』の後に
CD◎ BRAD MEHLDAU After Bach (nonsuch)
きのうは仕事も手につかず、その向こうで、ずっとブラッド・メルドーがめぐっていた。
‘After Bach’というアルバムを、久しぶりにかけた。リリースされたのが一昨年で、それ以来かもしれない。
“Before Bach”が冒頭にあって、これはBenediction、感謝の祈り。それから、プレリュードやフーガがきて、“After Bach”と交互に織りなされていく。積み重なっていく感じもある。おしまいに、“Prayer for Healing”という曲が訪れる。ここにいたったメルドーのピアノはいつにも増して瑞々しく、とても優しい。
バッハの前に道はあり、バッハの後に道はある。祈りはある。
ブラッド・メルドーのピアノは、どこか執拗な窮屈さでぼくを引きつけるというのか、パラノイアな微熱ぽい持続で繋ぎとめるものだ。粘り強く手放さずに踏み歩く感じがいつもある。
だから、バッハに臨んでも、まずは素直に迷宮を思わせた。アルバム・カヴァーのモノクロ写真の螺旋階段が影響していないとは決して言えないが、そのイメージが聴くことをじゃまをしていることはない。
だいいち、バッハを弾くメルドーはとても楽しそうだ。メジャーの曲はもちろん明るいし、後半のマイナーのプレリュードやフーガでも塞ぎこんではいない。明快であり、そのぶん開放的な広がりがある。
この迷宮には、堂々めぐりしているようでいて、決して行き止まりがない。そればかりか、響き合う空間が、ゆったりととられている。テクスチャーの織りなしかたは、メルドー流のコラールというべき和声感をくり延べていて、彼がインプロヴァイズするときの手つきと当然ながら親しい。
しかし、このアルバムの作品と演奏には、どこか垂直的な広がりがある。それが、くり広げられる迷路の壁という壁に、さまざまな角度から、あまねく目映い光を反射させている。
迷宮には終わりがない。それでいて、迷い込むごとに、ひらかれていくみえかたがあり、ものごとがある。ボルヘスなら、こういうのがきっと好きだと思う。
‘After Bach’というアルバムを、久しぶりにかけた。リリースされたのが一昨年で、それ以来かもしれない。
“Before Bach”が冒頭にあって、これはBenediction、感謝の祈り。それから、プレリュードやフーガがきて、“After Bach”と交互に織りなされていく。積み重なっていく感じもある。おしまいに、“Prayer for Healing”という曲が訪れる。ここにいたったメルドーのピアノはいつにも増して瑞々しく、とても優しい。
バッハの前に道はあり、バッハの後に道はある。祈りはある。
ブラッド・メルドーのピアノは、どこか執拗な窮屈さでぼくを引きつけるというのか、パラノイアな微熱ぽい持続で繋ぎとめるものだ。粘り強く手放さずに踏み歩く感じがいつもある。
だから、バッハに臨んでも、まずは素直に迷宮を思わせた。アルバム・カヴァーのモノクロ写真の螺旋階段が影響していないとは決して言えないが、そのイメージが聴くことをじゃまをしていることはない。
だいいち、バッハを弾くメルドーはとても楽しそうだ。メジャーの曲はもちろん明るいし、後半のマイナーのプレリュードやフーガでも塞ぎこんではいない。明快であり、そのぶん開放的な広がりがある。
この迷宮には、堂々めぐりしているようでいて、決して行き止まりがない。そればかりか、響き合う空間が、ゆったりととられている。テクスチャーの織りなしかたは、メルドー流のコラールというべき和声感をくり延べていて、彼がインプロヴァイズするときの手つきと当然ながら親しい。
しかし、このアルバムの作品と演奏には、どこか垂直的な広がりがある。それが、くり広げられる迷路の壁という壁に、さまざまな角度から、あまねく目映い光を反射させている。
迷宮には終わりがない。それでいて、迷い込むごとに、ひらかれていくみえかたがあり、ものごとがある。ボルヘスなら、こういうのがきっと好きだと思う。
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